日本大百科全書(ニッポニカ) 「フランス労働総同盟」の意味・わかりやすい解説
フランス労働総同盟
ふらんすろうどうそうどうめい
Confédération Générale du Travail
フランスの有力な労働組合中央組織。略称CGT(セージェーテー)。
フランス労働組合中央組織の勢力比
フランスの労働組合中央組織は、運動理念の違いや政治的対立のため複数の団体に分立しており、全国的な代表性を認められている労働組合組織は、(1)CGT(労働総同盟、1895年設立)、(2)CFDT(フランス民主労働同盟Confédération Française Démocratique des Travailleurs、1964年設立)、(3)FO(労働総同盟・労働者の力、1948年設立、CGT-FOともいう)、(4)CFTC(フランス・キリスト教労働者同盟Confédérations Françaises des Travailleurs Chrétiens、1919年設立)、(5)CFE-CGC(管理職総同盟Confédération Française de l'Encadrement - Confédération Générale des Cadres、1944年設立)の五つである。フランスでは各労組により組合員の定義が異なる場合があり、労組間で組合員数を単純に比較することは困難である。そこで、2008年12月の労働裁判所裁判官選挙(10人以上雇用する企業で実施)での得票により、その勢力比をみると、(1)CGT、34.00%、(2)CFDT、21.81%、(3)FO、15.81%、(4)CFTC、8.69%、(5)CFE-CGC、8.19%となっている。
[佐伯哲朗]
CGTの沿革
フランスで労働組合の全国組織が結成されたのは、1880年代後半のことであった。1886年に労働党(ゲード派Guesdistes)の主導する全国労働組合連盟Fédération nationale des syndicats et groupes corporatifs de Franceが創設されたが、これは、1884年の労働組合法に基づいて結成された産業別労連、職能別労連、独立の労働組合を糾合した組織で、政治行動を目ざしたものであった。他方、1887年のパリをはじめ各都市に、相互扶助、労働者の教育、就職斡旋の機関として、労働取引所が創設され(1892年の時点で14か所)、これらがペルーチエFernand Pelloutier(1867―1901)の指導のもと1892年に労働取引所連盟(FBT)へと統合された。1894年には、この二つの全国組織がナントで合同大会を開催し、社会主義者の議会主義路線に反発して、(1)政党による指導の拒否、(2)革命の手段としてのゼネスト(ゼネラル・ストライキ)の採用などの原則を採択した。全国労働組合連盟の多数派は、1895年にCGTを結成、1890年代末に職能別全国組織の結成を指導した。
ペルーチエを書記長とする労働取引所連盟が労働運動を指導し、自律的な運動が展開された。労働者組織を細胞とする未来社会を構想し、労働者自身による解放の実現を唱えたが、このような思想や運動は、革命的サンディカリズムとよばれた。1902年、CGTは労働取引所連盟を吸収して労働運動を統一、1906年には、(1)あらゆる政党からの独立、(2)ゼネスト戦術、(3)資本主義の廃絶、(4)未来社会の基盤に転化すべき労働組合など、として定式化されたアミアン憲章を採択した。サンディカリズムの運動は、1906~1910年に全盛期を迎え、CGTの指令のもとに多くのストライキを企てたが、急進党主導の政府による社会政策と弾圧といういわば「飴(あめ)と鞭(むち)」の政策の前に、衰退を余儀なくされた。1914年以前には唯一の中央組織であったCGTは、25万~30万人の組合員を擁していた。
第一次世界大戦後には、ロシア革命の衝撃のもとでCGTの組合員数は急激に増加、開戦前の30万人余りが、1920年には160万人近くになったが、そこには相対的に組合経験の浅い若い世代、熟練度の低い労働者層が多く含まれていた。1920年ゼネストの敗北と組織上の退潮は、社会党の分裂と相まって、CGTの内部対立を激化させた。ジュオーらの多数派指導部は、労働組合運動の自律・独立性を維持しようとしたのに対し、少数派は労働組合を共産党の路線にそってCGTを赤色労働組合インターナショナル(プロフィンテルン)に加盟させようとした。1921年9月のCGT委員会で除名を決定された少数派は、同年12月に独自の大会を開催してCGTU(統一労働総同盟Confédération Générale du Travail Unitaire)の結成を決定、翌1922年に結成大会を開催し、その組合員数は40万人(1922)となった。
分裂後のCGTは、公務員、教員、郵便電信などの分野で組織化を進め、1930年代に入ると、CGTUを上回る勢力を回復した。1936年、人民戦線運動の時期にCGTUと再統一したCGTは、組合員を100万人から400万人に増大させた。第二次世界大戦後の解放期には、400万人以上の組合員を擁した。
その後、CGTの組合員数は、研究者ラべDominique Labbéらの推計によると、1950年代なかばには200万人以上をほぼ維持、その後減少したものの、1969年から1975年には180万人を超えるまでに回復した。だが、1980年代にはふたたび減少に転じ、1984年には100万人を割っている。
[佐伯哲朗]
共産党との関係
第二次世界大戦中の抵抗運動の過程でCGT内での共産党の影響力が強まり、戦後解放期にはCGT執行部に対する共産党の影響力は決定的になった。フラションBenoît Frachon(1893―1975)、セギGeorges Séguy(1927―2016)、クラズキHenri Krasucki(1924―2003)、ビアネLouis Viannet(1933―2017)と第二次世界大戦後4代の書記長は共産党全国局員(旧、政治局員)であり、CGTは選挙では共産党を支持してきた。だが、1992年大会前後から組織人員の減少やソ連社会主義体制の崩壊を背景に、指導部による組合要求の決定や指令重視の組織運営が批判を受けるなど、共産党との関係の見直しが進んだ。1992年大会で書記長に選出されたビアネは1996年に共産党全国局員を辞任し、1997年総選挙では初めて組合員への投票指示が出されなかったといわれている。
[佐伯哲朗]
CGTの現状
CGTに所属する産業別組織の組合員数は、1974年を境に多くの産業において急激に増加から減少へと転じた。1974年から1993年の間に、有力組合である金属労連(自動車、電機、鉄鋼、航空機、兵器など)の組合員は7分の1に、フランス国有鉄道会社Société Nationale des Chemins de fer Français(SNCF)労組では4分の1に、郵便電話Postes Télégraphes et Téléphones(PTT)労組では2分の1に、官公庁労組では4分の1にそれぞれ減少した。ただし、1995年全国争議やそれに続く一連の争議を通じて、CGT金属労連など一部の組合では、組合員の減少が止まり、緩やかに増加していることが伝えられている。
1999年に「提案のできる組合へ」という新しい流れを代表する当時40歳のティボーBernard Thibault(1959― )が書記長に選出され、従来の路線の見直しが進む。2002年には、ティボーは(1)執行部の縮小、(2)非中央集権化という組織改革を打ち出し、同年の大統領選では共産党候補を組織として支持せず、CGTの独自性を追求した。だが、翌2003年の第47回大会では、過去3年の活動報告への賛成は75%にとどまり、ティボーの進める路線への根強い抵抗があることをうかがわせた。
[佐伯哲朗]