チャウシェスク(読み)ちゃうしぇすく(その他表記)Nicolae Ceauşescu

デジタル大辞泉 「チャウシェスク」の意味・読み・例文・類語

チャウシェスク(Nicolae Ceauşescu)

[1918~1989]ルーマニア政治家スターリン主義を発展させた自主路線を展開。1974年には初代大統領就任、独裁体制を確立したが、1989年12月の民主化で失脚し、夫人とともに処刑された。

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精選版 日本国語大辞典 「チャウシェスク」の意味・読み・例文・類語

チャウシェスク

  1. ( Nicolae Ceauşescu ニコライ━ ) ルーマニアの政治家。ソ連のスターリンの死後、自主路線を展開。一九七四年大統領就任、権力を一手に握って独裁体制を確立したが、八九年一二月、民主化によって失脚、夫人とともに処刑された。(一九一八‐八九

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「チャウシェスク」の意味・わかりやすい解説

チャウシェスク
ちゃうしぇすく
Nicolae Ceauşescu
(1918―1989)

ルーマニアの政治家。オルテニア地方の農家の出。職を求めてブカレストに出て、1933年に青年共産同盟に入り、1936年に共産党加入と同時に青共の地方書記に就任した。同年から2年半投獄され、出所と同時に青共中央の書記になり、またブカレスト経済専門学校に学んだ。1940年からふたたび投獄されたが、獄中ゲオルギュ・デジらとの連帯感を育てた。1944年の反枢軸クーデターのあと出獄、1948年に党中央委員となった。戦後初期の勢力基盤は軍であった。1944年から准将の資格で軍の政治委員になり、1950年に少将に昇進、国防次官となった。1952~1955年には党中央委組織局長を務め、基盤をさらに固めた。スターリン死(1953)後の政治的動揺の過程でデジにその精力と組織能力を買われ、1954年に党書記、1955年に政治局員に選任された。1965年のデジの死後、47歳の若さで党第一書記に就任し、デジが開始した自主路線をさらに発展させた。権限の集中が特徴的で、党書記長兼大統領のほか、統一戦線、国防、経済、イデオロギーなどの最高機関の議長を兼任した。1989年の民主化で失脚、死刑となった。

[木戸 蓊]

『N・チャウシェスク著、草野悟一訳『平和と国際協力の政策』(1972・恒文社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「チャウシェスク」の意味・わかりやすい解説

チャウシェスク
Ceauşescu, Nicolae

[生]1918.1.26. スコルニチェシュティ
[没]1989.12.25. ブカレスト近郊
ルーマニアの政治家,大統領,ルーマニア共産党書記長,軍司令官貧農の家庭に生まれる。1936年共産党に入り,共産主義青年同盟で活動。第2次世界大戦中は,ソビエト連邦へ逃れた指導者たちがいた一方,ゲオルゲ・ゲオルギウ=デジらとともに獄中にあり,1944年8月のクーデターを迎えた。1945年党中央委員候補,1948年中央委員,1952年書記,1955年政治局員へと昇進し,政府職務では 1948~50年農林次官,1950~54年国防次官などを歴任。1956年以降の東ヨーロッパ圏の動揺のなかで,1960年代に入るとゲオルギウ=デジは明確に対ソ抵抗を開始し,チャウシェスクを中心とする若手の党機関員に自立化の支柱を求めた。1965年にゲオルギウ=デジが死ぬと,チャウシェスクは 47歳の若さで党第一書記(すぐ書記長と改称)に選出された。まもなく前指導者の批判を進めて権力を自己の親族・グループで固め,1967年には国家評議会議長(元首)を兼任,1974年大統領制の創設に伴い初代大統領をも兼任し,独裁的最高指導者として自主路線を展開した。1989年12月17日,ティミショアラで起こったハンガリー系市民の虐殺に抗議したデモが全国に波及し,12月22日チャウシェスク体制は崩壊に追い込まれた。チャウシェスクと第一副首相のエレナ夫人は逮捕され,12月25日非公開の特別軍事法廷によって死刑の宣告を受け,夫妻はただちに銃殺刑に処せられた。(→ルーマニア史

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百科事典マイペディア 「チャウシェスク」の意味・わかりやすい解説

チャウシェスク

ルーマニアの政治家。オルデア出身。ブカレスト経済アカデミーで学び,1933年共産党入党,1936年党地方書記となる。のちの第一書記ゲオルギウ・デジらとともに第2次大戦中は国内の獄中にあった。1948年党中央委員会書記,1950年国防次官,1965年党第一書記に就任(職名を書記長に変更)。自主路線を継続し,1971年訪中,1974年大統領就任。1980年には妻のエレーナも第一副首相。長期独裁政権による権力の私物化が生まれ,1989年の東欧革命では,ティミショアラのハンガリー人牧師擁護運動を契機に国民の不満が爆発,同年12月救国戦線評議会により夫婦とも銃殺刑に処せられた。→ルーマニア労働者党
→関連項目ブカレスト

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「チャウシェスク」の解説

チャウシェスク
Nicolae Ceauşescu

1918~89

ルーマニアの政治家,大統領(在任1974~89)。1936年共産党に入党。ゲオルギウ・デジらとともに第二次世界大戦期を国内の刑務所で過ごす。48年には中央委員,55年政治局員となった。65年3月ゲオルギウ・デジの死去に伴い党第一書記(同年7月の党大会で書記長と改称),67年国家評議会議長(国家元首)に就任,74年大統領制導入とともに初代大統領となり,最高指導者として実権を掌握。対外的には自主路線を展開した。70年代,西側に接近し工業化政策を推進。80年代には対外債務の自力返済のため強制輸出政策を実施,国民生活は窮乏化した。政府,党の要職に近親者をつけて独裁的体制を築いたが,89年12月体制崩壊(東欧革命)のなか,第一副首相のエレナ夫人とともに逮捕され,軍事裁判ののち処刑された。

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旺文社世界史事典 三訂版 「チャウシェスク」の解説

チャウシェスク
Nicolae Ceauşescu

1918〜89
ルーマニアの政治家,大統領(在任1974〜89)
1965年,ルーマニア労働者党第一書記となり,ルーマニア社会主義共和国の新憲法を制定した。1974年に大統領制を採用すると,初代大統領となり,85年に4選を果たした。外交では,ソ連から一定の距離をおいた自主独立路線をとり,西側諸国からも評価された。しかし,経済の悪化と独裁体制は国内での批判を受け,1989年,東欧諸国の民主革命が進む中,全国的に暴動が起こり,逮捕後,処刑された。

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