ルーマニアの政治家。オルテニア地方の農家の出。職を求めてブカレストに出て、1933年に青年共産同盟に入り、1936年に共産党加入と同時に青共の地方書記に就任した。同年から2年半投獄され、出所と同時に青共中央の書記になり、またブカレスト経済専門学校に学んだ。1940年からふたたび投獄されたが、獄中でゲオルギュ・デジらとの連帯感を育てた。1944年の反枢軸クーデターのあと出獄、1948年に党中央委員となった。戦後初期の勢力基盤は軍であった。1944年から准将の資格で軍の政治委員になり、1950年に少将に昇進、国防次官となった。1952~1955年には党中央委組織局長を務め、基盤をさらに固めた。スターリン死(1953)後の政治的動揺の過程でデジにその精力と組織能力を買われ、1954年に党書記、1955年に政治局員に選任された。1965年のデジの死後、47歳の若さで党第一書記に就任し、デジが開始した自主路線をさらに発展させた。権限の集中が特徴的で、党書記長兼大統領のほか、統一戦線、国防、経済、イデオロギーなどの最高機関の議長を兼任した。1989年の民主化で失脚、死刑となった。
[木戸 蓊]
『N・チャウシェスク著、草野悟一訳『平和と国際協力の政策』(1972・恒文社)』
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1918~89
ルーマニアの政治家,大統領(在任1974~89)。1936年共産党に入党。ゲオルギウ・デジらとともに第二次世界大戦期を国内の刑務所で過ごす。48年には中央委員,55年政治局員となった。65年3月ゲオルギウ・デジの死去に伴い党第一書記(同年7月の党大会で書記長と改称),67年国家評議会議長(国家元首)に就任,74年大統領制導入とともに初代大統領となり,最高指導者として実権を掌握。対外的には自主路線を展開した。70年代,西側に接近し工業化政策を推進。80年代には対外債務の自力返済のため強制輸出政策を実施,国民生活は窮乏化した。政府,党の要職に近親者をつけて独裁的体制を築いたが,89年12月体制崩壊(東欧革命)のなか,第一副首相のエレナ夫人とともに逮捕され,軍事裁判ののち処刑された。
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