カルパチ山脈の中央部から南東部にかけての森林の多い丘陵地帯で,現在北部はウクライナ,南部はルーマニアの領土である。カルパチ山脈の峠を越えて西方はトランシルバニア,ハンガリーへ通じ,またドニエストル川,プルート川,シレト川によって黒海と結ばれているこの地方は,商業・軍事上の要地であったが,独立した国家組織をもったことはなかった。
10世紀にキエフ・ロシアの支配下におかれ,12~13世紀にはガリツィア・ボルイニ公国に属したが,〈ブナの森のくに〉を意味するこの地名が初めて文献に現れたのは1392年であり,14世紀以降に一つの地域を形成するようになったとみてよいであろう。もっとも14世紀中葉モンゴル人のキプチャク・ハーン国の支配を脱してモルドバ公国が成立した当初には,この地方は公国の主要部をなし,南ブコビナの中心都市スチャバが公国の首都であった。モルドバ公国はやがて16世紀初めからオスマン帝国に服属し,ブコビナもスルタンの宗主権下におかれ,この状態は1769年までつづいた。
1768-74年の露土戦争によってオスマンの支配から脱したが,この地方の軍事的意義に着目したオーストリアは,1774年にロシア軍が撤退したのち,75年にこの地を領有した(ホティン地区のみが1812年以後ロシア領となる)。オーストリア支配期にブコビナは皇帝直轄領として一つの行政単位をなし(面積1万0452km2),ドイツ人の大規模な植民が行われ,ドイツ人が社会・文化の指導的地位を占めた。こうして1875年にはチェルノフツィ大学(講義はドイツ語で行われた)が創設されたが,経済的にはオーストリア・ハプスブルク帝国内の最後進地域にとどまっていた。この時期に民族問題も発生するが,1910年の統計によれば総人口79万5000のうち,ウクライナ人30万5000,ルーマニア人27万3000,ドイツ人およびユダヤ人16万9000,このほかに少数のハンガリー人,ポーランド人,アルメニア人が居住していた。宗派別にみれば,ウクライナ人とルーマニア人のほとんどを含む東方正教徒が全体の71%を占め,東方正教・カトリックの合同教会派3%,カトリック11%,ルター派2.5%,ユダヤ教12%であった。18年1月,ロシア革命の影響をうけブコビナ人民会議は北ブコビナのウクライナ併合を決議したが,同年11月ルーマニア軍が占領,19年サン・ジェルマン条約によって全ブコビナがルーマニアに帰属した。ルーマニア統治期にはウクライナ人学校の閉鎖のような差別政策がとられたが,40年ソ連はベッサラビアとともに北部ブコビナへの領有権を主張して取得した。なおドイツ人の多くは,ドイツ・ソ連,ドイツ・ルーマニア間の協定によって本国へ帰国した。
執筆者:萩原 直
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
ヨーロッパ東部、ウクライナとルーマニアにまたがる地域の歴史的呼称。カルパティア山脈北東の山麓(さんろく)地方をさし、シレト川、プルート川、ドニエストル(ドニステール)川の上流地帯にあたる。面積4031平方キロメートル。北部はウクライナに属し、住民の多数はウクライナ(ルテニア)人。南部はルーマニア領で、ルーマニア人を相対多数とする多民族が住む。トルコ領であったが、1774年にオーストリア(当時)のガリツィア地方に編入された。1919年にルーマニア軍により占領され、パリ平和会議でもルーマニア領とされた。1940年6月にソ連はベッサラビアとともにブコビナの割譲をルーマニアに要求、ドイツが難色を示したので、ブコビナは北部のみがソ連に帰属、1991年のソ連解体でウクライナ領となった。
[木戸 蓊]
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…都市の近代化が急速に進み,パルプ・製紙工業が導入された。ブコビナ地方と呼ばれる市の北西40~70kmには,ボロネツ,モルドビツァ,プトナ,シュツェビツァなど宗教壁画のある修道院があり,ルーマニアの代表的な観光地の一つとなっている。【佐々田 誠之助】。…
※「ブコビナ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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