翻訳|Budapest
ハンガリーの首都。正しくは〈ブダペシュト〉。面積約525km2,人口171万(2004。全国人口の約17%)。ドナウ川を挟んで右岸のブダBuda地区,左岸のペシュトPest地区に大別されるが,行政的には22区から成る(ブダに6区,ペシュトに15区,チェペル島に1区)。国会をはじめ政府,党の中央諸機関がある。
ハンガリー盆地のほぼ中央,ドナウ川のほぼ中流に,ドナウ川を挟んで位置する。ドナウ川右岸のブダ地区は丘陵,左岸のペシュト地区は平野から成る。ブダ地区には城丘,ゲレールト丘(235m),市内で最も高いヤーノシュ丘(529m),テレビ塔のある解放丘(464m)などがあり,その間の平地と斜面に住宅が並ぶ。とくに城丘の上とまわりにはかつて貴族の邸宅が並んでいたが,今はアカデミーや博物館などの公共建物や数世帯の共住する住宅に利用されている。ブダの北西部は別荘地,南部は工場地帯となっている。ペシュト側は平野で,ハンガリー平原の一部をなす。ドナウ川を底辺にして半円形に道路が囲み,さらに北,東,南へと放射状に道路が延びる。19世紀までドナウ川の支流が市を環流しており,それと本流との間に囲まれたところが旧市街で,その中には,国会を中心とした高級官庁や文化施設のあるリポートバーロシュLipótváros,商業の中心であるバーツィVáci通りなどがある。ペシュト側の北部,南部は工業地区であるが,郊外に延びる市街は新しい住宅街である。ドナウ川の中の島のうち,マルギット島はレジャー・センター,チェペル島は工業センターである。
ハンガリーの工業の中心で,全国の工業の半分以上が集中する。国有大工業としては,チェペル島を中心とする機械工業(とくに資本集約的なもの)が首位にあり,次いで繊維工業,食料品・化学・建材工業が多い。一方ペシュト地区には多数の小工業がある。ブダペストの農業は野菜,園芸を中心とするが,あまり重要ではない。商業においては,国内商業の3分の1,外国貿易の大部分を占める。比較的大きな国営の百貨店やスーパーマーケットがいくつかあるが,多数の私的小商業が繁栄している。市内の各地区に一つ大規模な市場があり,国営,協同組合営,私営の食料品店(肉や野菜)が並ぶ。また小型の市場が数多くあり,朝早くから開いている。近年の商業の近代化は著しい。交通は市電,市バス,地下鉄,郊外電車,船がある。近年市電が除去されてバスに切り換えられている。地下鉄はヨーロッパ大陸で最も早く1896年にできたもののほか,第2次大戦後1970年代と80年代に東西と南北の2方向の路線が建設された。ただし旧市街では都市構造が古いので,自動車の便はやや悪く,またドナウ川をまたぐ9本の橋がすでに狭くなり交通阻害の因となっている。
住宅はほとんどが国営住宅の賃貸だが,近年協同組合方式の分譲住宅も伸びてきている。ブダ地区は2,3階建ての庭付住宅を数世帯で分けて住むのが,ペシュト地区は高層の共同住宅が多いが,住宅難である。
科学アカデミーと付属の31の研究所のほか,エトベシュ・ローランド大学(通称ブダペスト大学。1635創立),医大,農業大,経済大学,工業大学など18の大学・単科大学がある。セーチェニ国立図書館のほか市立図書館が非常に発達していることで有名である。博物館としては,民族博物館,国立美術館,ホップ・フェレンツ東アジア博物館などがある。芸術関係では,国立劇場,オペラ劇場,リスト・フェレンツ音楽院,エルケル劇場など多数の劇場がある。市内には歴史記念物が多く,ブダの旧王宮は市史博物館や図書館などとして再利用されている。マーチャーシュ教会その他のキリスト教会は今も機能しており,ユダヤ教会(シナゴーグ)もある。
2世紀,ローマ時代にドナウ右岸の現在のオーブダObuda(ブダの上流)につくられたアクインクムAquincumがブダペストの出発点で,ローマ軍の駐屯地,下パンノニアの主都として栄えた。5世紀初めにフン族が到来,その後種々の部族がここを占領した。895-896年にハンガリー盆地に入ったハンガリー人の族長アールパードらは900年ころにアクインクム周辺に拠点を構え,それを当時の有力族長の名にちなんでブダと名づけた。同じ頃,ドナウ左岸の今のペシュト地区とその対岸のゲレールト丘と城丘の間にも町がつくられ,左岸がペシュト,右岸が小ペシュトと称された(ペシュトというのは石灰石を焼く窯の呼称)。以後バルカンと北東ヨーロッパを結ぶ商業の拠点として栄えた。13世紀のモンゴル来襲で破壊されたあと,現在の城丘の上に新しい町が建てられ,ブダ(ドイツ語でオーフェンOfen)と名づけられ,旧ブダはオーブダと呼ばれた。小ペシュトは消えて,左岸のペシュトのみが再建された。14~15世紀にはこの三つの町はドイツ人が指導し,商業(家畜・ワイン取引)と手工業で栄えた。15世紀にはマーチャーシュ1世のもとでブダ城はルネサンスの中心となった。ペシュトは1470年に国王自由都市となり,ブダと同格となった。1541年にはブダもペシュトもオスマン・トルコ軍の手に落ち荒廃が続いた。とくに1686年のオスマン帝国からのブダ解放戦は破壊的であった。これによってオスマン・トルコは撤退し,オーストリア・ハプスブルク帝国の支配下に町の再建が始まるが,軍と教会の利益が優先され,ドイツ人と教会関係者しか定住を許されなかった。それでも1703年に両町とも国王自由都市となり,ヨーゼフ2世(在位1765-90)下で副王の所在地がポジョニュ(ブラティスラバ)からブダへ移され,同時に貴族の居所も移った。ペシュトの商業がしだいに発展し,マニュファクチュアもできた。1767年にはブダとペシュトの間に恒常的な舟橋が設けられた(当時の人口約5万)。
19世紀初めのナポレオン戦争期の好況以来ペシュトの商人資本の成長は著しく,手工業に加えて機械制大工業も登場し,地方からの人口流入が始まった。1830年代の〈改革期〉にはペシュトに民族博物館やアカデミーができた。1848年革命期にはペシュトの民衆の役割は大きく,一時議会と政府もポジョニュからペシュトに移った。49年の独立戦争期の荒廃とその敗北後の沈滞を経て,67年のオーストリア・ハンガリー二重帝国の成立(アウスグライヒ)以後,ブダとペシュトは再び発展を始めた。72年に両市は合体してブダペストとなり(人口約30万),以後,二重帝国のハンガリー側の首都として,また,食料品加工,農業関連工業,さらには機械工業をもち,外資系の大銀行をもつ都市として,そしてプロレタリアートの都市として成長した。同時に農村に比して貴族的でユダヤ的な色彩も濃くした。
20世紀初めの十数年はブダペストが政治的,経済的,文化的に最も活気を帯びた時期である(1910年の人口110万)。経済的にはドイツ・オーストリア資本と結んだ銀行を中心に金融資本グループが形成され,政治的には労働者の普通選挙要求闘争が展開され,文化的にはルカーチやポランニーやヤーシJászi Oskár(1875-1957)やサボー,あるいはバルトークやコダイらの活躍があった。このような政治的・文化的な運動を背景として,第1次大戦末期の1918年10月にカーロイらのブルジョア的政権ができ,さらに19年3月にクンらのソビエト政権ができた。しかしこのような首都での変革は,19世紀末以来,農村に展開していた農民運動と密接に結びつくことができなかった。そして20年以後ホルティのもとで反動の舞台へと変わった。ホルティ体制のもとでも首都は農村を支配する貴族地主の町にほかならなかった。第2次大戦末期に市の大半は破壊されたが,戦後社会主義体制下で必死の復興が行われた。56年のハンガリー事件は基本的に首都の運動であり,その中で市は再び一部破壊された。しかし,その後は順調に復興し,農村との結合もうち立てられ,70年代以後東ヨーロッパで最も活気のある大都市として発展している。
執筆者:南塚 信吾
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ハンガリーの首都。同国の中北部、ハンガリー盆地に位置し、ドナウ川が市内を貫流している。面積525平方キロメートル、人口177万5203(2001)。中部ヨーロッパ最大の都市で、ハンガリーの政治、文化、産業、交通の中心地。同国全人口の約17%が集中し、1平方キロメートル当りの人口密度は3381人。
現在のブダペストは一つの行政単位として統合されているが、ドナウ川右岸側のブダ地区と左岸側のペスト地区は長い間互いに独立した双子都市として発展してきた。ブダは歴史が古く、古代ローマ帝国の領有時代に砦(とりで)が築かれた。これに対してペストはドナウ川の氾濫(はんらん)原となっていた低平地で、洪水などによる水害を受けやすく、その開発が遅れたが、ブダが山がちで土地利用に余裕がないことと、この地が東西南北の交通の要所であったため商業の町として急激に発展した。1873年、両市は合併に調印し、ブダペストと称するようになった。ブダは山が河岸近くまで迫り、起伏に富んだ町で、城山(バールヘジュVárhegy)とよばれる丘にはハンガリー王朝の王宮や戴冠(たいかん)式が行われたマーチャーシュ教会など歴史的建造物が多くみられる。この歴史的地域とドナウ川の河岸は1987年に世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。一方ペストは国会議事堂、科学アカデミー、国立博物館、国立オペラ劇場、ペスト・コンサート・ホールなど現代の政治、科学、文化、芸術の中枢機関が集中している。
ブダペストはまたハンガリー最大の工業都市で、全国の工業生産の約50%、工業従事者数の約26%を占め、工業の首都への集中度が非常に高い。この都市の重要な工業地域は南部のチェペルCspelと、市の北郊に新しく開発されたウーイペシュトÚjpestである。前者はドナウ川の川中島に建設された工業地域で、工業用水の取得に都合のよい立地条件を有している。もっとも重要な製品は、鉄道・船舶・バスなどの輸送機械と電気機械、工作機械などの機械工業製品で、なかでもガンツ・マーバグ社の電気機関車、イカルス社のバスは外国にも輸出され、よく知られている。
[古藤田一雄]
1873年にブダおよびオーブダ(古ブダ)とペスト地区とが合併して市制が発足した。初代市長はK・カムエルマイエルKamermayer Károly(1829―97)。ブダは、タタール(蒙古(もうこ))来襲後の13世紀中葉にベーラ4世がこの地に王宮を築いたことにその発展の基礎をもち、以後一貫して国の軍事的・政治的要地であった。オーブダはローマ帝国領パンノニア時代にはアクィンクムAquincumとよばれ、またハンガリー王家アールパード家ゆかりの地でもあったが、合併時には農業地区であった。他方、ペストの町の基礎は11世紀に東ブルガール人が築いている。
ペストはブダとともに王国特権都市として栄え、とくにヨーゼフ2世時代(1765~90)以降に経済的繁栄を強め、19世紀前半の改革期には自由主義派の政治的・文化的中心地ともなった。この改革期にブダとペストは橋で結ばれ、1849年には民族独立を目ざす革命のなかで一時、合併が実現したが、革命敗北後もとの状態に戻された。
ブダペストは中欧の要地でもあるため、古来、他民族の占領の対象となり、亡命先ともなった。このためとくにブダ地区の民族構成は多様で、今日でもトルコ系住民地域などにその痕跡(こんせき)がみいだせる。また、市制発足時の人口は約30万、面積は現在の半分以下であったが、当時しだいに急速化しつつあった国の経済発展を一身に担う形で市は発展し、人口も1910年に88万、44年に138万へと急増した。1950年には、すでに市の一部となりつつあった周辺の7市16町を編入して現在の姿ができあがった。市制発足以来ハンガリーの首都である。
[家田 修]
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