日本大百科全書(ニッポニカ) 「ブリュッヘ」の意味・わかりやすい解説
ブリュッヘ
ぶりゅっへ
Brugge
ベルギー北西部、西フランドル州の州都で、工業・観光都市。名称はフラマン語で「橋」の意。フランス語名ブリュージュBruges。人口11万6836(2002)。
[川上多美子]
地誌
ボードワン運河とオーステンデ・ヘント運河の合流点に位置し、北海に結ばれる。伝統工業としてレース製造、造船、製粉、ビール醸造業がある。ベルギーでもっとも早く工業地区制を取り入れ、工業港の整備とも相まって、新しく自動車・バス組立て、電子、精密機械、ガラス、繊維、化学などの工業が発達してきた。町の最盛期にあたる13世紀の鐘楼、グラン・プラス(大広場)、市立美術館、メムリンク美術館、ベギン修道院などが幾条もの運河に囲まれたレンガ造りの町並みの中にあり、「北のベニス」といわれるように典型的な中世都市の姿をとどめている。
[川上多美子]
歴史
ブリュッヘの名が歴史に現れるのは、フランドル伯ボードワン1世がノルマン人の侵攻に対してレイエ川の二つの支流にはさまれた土地に城砦(じょうさい)を築いたときのことである(892)。11世紀以降ブリュッヘはフランドル伯を都市領主としてそれに従属しつつも、市民共同体として一定の自由と自治を享受してきたとされる。13世紀初頭にはフランドルの主要港となり毛織物産業が開花し、市政は有力な商人の掌握するところとなった。市街地も急速に発達し、石造の城壁で囲繞(いにょう)された(1127、1300)。市街地面積もそれに応じて86ヘクタールから460ヘクタールに拡大された。ヨーロッパ最初の証券取引所も開設され、中世の金融業者として名高い北イタリアの商人も外国人居留者として居住していた。
14世紀に入るとブリュッヘの市長や参事会は市民の司法・財政上の特権をよく保護し、フランドル伯やフランス国王との関係を機敏に処した。1302年5月、下層市民の一斉蜂起(ほうき)(ブリュッヘの暁(あかつき)事件)で市内に居住するフランス人が襲撃され、フランス国王フィリップ4世はアルトア伯麾下(きか)の精鋭騎士軍をフランドルに派遣したがコルトレイク(フランス語名クルトレー)で敗退した(同年7月)。1349年、ハンザ同盟に加盟し、羊毛機織(はたおり)、毛織物紡績、レース製造、綴織(つづれおり)(タペストリー)製造および貴金属加工などの産業を著しく発展させていった。
ブリュッヘの没落は16世紀に始まる。すでにヘントとの激しい競合で消耗していたし、ブルゴーニュ支配を始めたハプスブルク家(神聖ローマ帝国)の好餌(こうじ)とされていた。15世紀を通じて進行したツウィン川の環境破壊により北海への直接のアクセスを失い、さらにイングランドの毛織物産業の発達によってその優位性も失ったため、外国人商人はアントウェルペン(アントワープ)に去った。1548年にはスペイン軍に支配された。フランスは二度にわたり、ブリュッヘを領有し(1745、1794)、第一帝政期にはフランスのラ・リス県の都市とされた。人口も3万5000人まで下落した。
16世紀の商業資本主義が飛躍した時代にも19世紀の産業革命の時代にも取り残され、ローデンバックGeorges Rodenbach(1855―98)作の『死都ブリュージュ』(1892)の名を戴くことになる。しかし20世紀には海岸地帯の運河の新設や新港ゼーブリュッヘの築港と当地域の重点的開発で、ふたたび活況を呈してきている。今日、中世末期の都市景観を保つ旧市街は、同市の所有する豊かな芸術遺産とともに魅力的な観光資源として注目されている。
[藤川 徹]
世界遺産の登録
歴史的建造物の建ち並ぶ旧市街が2000年、ユネスコ(国連教育科学文化機関)により「ブリュッヘ歴史地区」として世界遺産の文化遺産に登録された(世界文化遺産)。
[編集部]