ウィーンにあるオーストリアの国立劇場。女帝マリア・テレジア時代の1741年に設けられた宮廷舞台(宮廷劇場)を,76年,ヨーゼフ2世が詔勅によってみずからの管理下におき,ドイツ演劇を涵養する国民劇場としたことにその歴史は始まる。最初の演出委員会時代を経て,89年にブロックマンが支配人となりワイマールで試みられた古典様式を引き継ぎ,シュライフォーゲルJosef Schreyvogel(1768-1832)の指導する時代(1814-32)には格式の高い古典的な様式の基礎を固めた。H.ラウベは話術の完成に腐心し,ディンゲルシュテットFranz von Dingelstedt(1814-81)の監督時代(1870-81)には舞台装置の様式が確立した。1888年には,G.ゼンパー設計の新しい劇場が完成している(1944年に空襲で消失)。ドイツ語圏で最も伝統と格式を重んずる劇場であるため,新しい作品を受容する際には,その保守性から躊躇がみられ,例えば近代劇や後にはB.ブレヒトなどが演目に採用されるのもかなり遅かった。第1次大戦後には現代的な作品の受容にも意欲を示し始め,ドイツ語圏演劇で指導的立場を占め,多くの名優を輩出した。ドイツ・オーストリア併合の苦難の時期を経て,第2次大戦後は,被災した劇場の再建までロナッハ会館で活動を続け,1955年に旧に復した劇場に戻った。第二劇場として〈アカデミー劇場〉を設け,古典劇,オーストリア演劇の遺産を継承しているが,それ以外にも現代の世界演劇の新しい傾向に遅れまいとする志向は,実験劇場〈第三ブルク劇場〉の試みに結実している。84年から,急進的な演出家パイマンを監督に迎え,保守的な演劇の牙城であるブルク劇場がどのような方向をとるかが注目されている。
なお,この劇場を背景にして,名優フリードリヒ・ミッテラーの〈老いらくの真実の恋〉を描いたオーストリア(ドイツ)映画《ブルグ劇場》(1936,ウィリー・フォルスト監督,ウェルナー・クラウス主演)は,ほろ苦い哀愁のにじみでた名作としてよく知られている。
執筆者:岩淵 達治
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オーストリアの国立劇場。ウィーンにある。オーストリア女帝マリア・テレジアによって宮城に隣接する舞踏館に1741年宮廷劇場として創立された。76年ヨーゼフ2世がこれを「ドイツ国民劇場」と名づけて以後、ウィーンにおけるドイツ語演劇の牙城(がじょう)となって盛時を迎えた。1888年に完成した新しい劇場は第二次世界大戦中に破壊されたが、1955年に再建されて今日に至る。19世紀初頭以来、ドイツ語圏全土の演劇を代表する劇場の一つとして名声は全世界に及んでいる。創立されてから一貫して古典劇の上演に力を注いできた。19世紀にはゲーテ、シラー、グリルパルツァーなどの格調の高い戯曲を主として涵養(かんよう)して、ハウプトマン、ホフマンスタール、シュニッツラーなどの新作の上演には消極的であったが、それもいまでは語りぐさでしかなく、新しい演劇の潮流に対しても積極的になりつつある。付設劇場のアカデミー劇場をもち、意欲的なレパートリーで現代の観客の期待にこたえている。
[宮下啓三]
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…〈コメディ・フランセーズ〉は,よかれあしかれ,フランスの古典を中心に,演劇芸術の伝統の擁護と顕揚を何よりのモットーに掲げ,時代とともに色合いを変えながらも,今日まで続いて健在である。もう一つ,古い国立劇場例には,ウィーンの〈ブルク劇場〉があげられる。かつてヨーロッパに多かった演劇愛好封建諸侯の〈王室あるいは宮廷劇場〉の一つを,1776年,ヨーゼフ2世が〈(国民)宮廷劇場〉として,国立劇場(と劇団)化したのがこの起りである。…
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