オーストリアの劇作家。ウィーンに生まれ,数回の外国旅行のほか終生ウィーンで暮らした。大学在学中に弁護士の父を失い,後年には母と末弟が自殺するなど,家庭的には不幸であった。控えめで謙虚な人柄であったが,その複雑な性格は女性に対する不幸な関係にも反映し,生涯にわたる婚約者をもちながらも独身を通した。1856年大蔵省を定年退職するまでの43年間,官吏としての生活を送った。芸術的にはゲーテとシラーの後継者として自負する彼は,健全な現実感覚によってメッテルニヒを批判したが,その政治的立場は結局保守的な域を越え出るものではなかった。作品の基盤にあるものとして,ウィーン的な要素,カトリックの精神,バロックの伝統も無視できない。デビュー作は26歳のとき発表した運命悲劇《祖先の女》(1817)であった。劇作家として不動の地位を築いた名作《サッフォー》(1818),三部作《金羊皮》(1821),《海の波,恋の波》(1831)は古代ギリシアに材をとり,卓越した心理描写は近代的な陰影に富む。ハプスブルク王朝成立を主題とする歴史劇の傑作《オトカル王の幸福と最期》(1825)は,当初検閲による没収の憂き目にあった。童話劇《夢が人生》(1834)の成功後,喜劇《噓つきに禍あれ》(1838)の上演失敗は彼に決定的打撃を与えた。彼は深い挫折感を抱き,以後演劇界から完全に身を引き作品の公表も断念する。晩年に至り作品が再演され,ウィーンの名誉市民になる(1864)など,種々の栄誉に輝いたが,隠遁の日を送る老詩人には〈もう遅すぎる〉というのが実感であった。彼の2編の短編小説のうち《ウィーンの辻音楽師》(1847)は,独特の魅力と味わいを持っている。遺稿として残された《トレドのユダヤ女》(1872初演),《ハプスブルク家の兄弟争い》(1872初演),《リブッサ》(1874初演)は,いずれも詩人の成熟した歴史認識を内包する重要な作品である。
執筆者:前田 彰一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
19世紀オーストリアの代表的劇作家。ウィーンで弁護士の子として生まれる。父の死後家庭教師をして一家を支え、やがて帝室図書館の見習いを振り出しに1856年まで官吏生活を送る。ゲーテ、シラーをはじめ、シェークスピア、ギリシア古典、スペインのカルデロン、ローペ・デ・ベーガらの文学に造詣(ぞうけい)が深い。ブルク劇場監督シュライフォーゲルに推され『祖先の女』(1817)で認められるが、この作を運命悲劇とみなされた反発からギリシア伝説に題材をとる『ザッフォー』(1818)、三部作『金羊毛皮』(1821)によって名声を確立した。しかし、メッテルニヒ体制の圧力により、イタリア紀行詩『カムポ・ウァチーノ』(1819)、歴史劇『オットカル王の幸福と最期』(1825)、『主人の忠実なる下僕』(1828)などの作品は不遇の目にあう。ほかに『海の波恋の波』(1831)、民衆劇風の『夢は人生』(1834)や『リブッサ』(1848)、『ハプスブルク家の兄弟争い』(1848)、『ユダヤの女』(1851)などの悲劇、喜劇『偽る者に禍(わざわい)あれ』(1838)など。小説では、シュティフターが短編小説の傑作と絶賛した『ウィーンの辻(つじ)音楽師』(1848)、および『ゼンドミアの僧院』(1828)がある。ベートーベンと親交があり、『ベートーベンの思い出』(1844~45)がある。
[佐藤自郎]
『実吉捷郎訳『ザッフォー』(岩波文庫)』▽『番匠谷英一訳『海の波恋の波』(岩波文庫)』
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