アフリカ南東部、タンガニーカ湖の北東岸に位置する小国。北はルワンダ、東と南はタンザニア、西はコンゴ民主共和国(旧、ザイール)に接する内陸国である。正称はブルンジ共和国Republika y'Uburundiで、植民地時代はウルンジUrundiとよばれた。面積2万7834平方キロメートル、人口648万3000(1999年推計)、844万(2011年推計)。人口密度は1平方キロメートル当り442人(2020)である。首都はギテガGitega。2018年12月にブジュンブラから移った。ただし、一部機関はブジュンブラにある。
[赤阪 賢・近藤有希子]
国土の大部分は高原からなる。最西部にはアフリカ大地溝帯の西翼が走り、標高800~1000メートルの陥没帯が南北に延びている。ここにはタンガニーカ湖(湖面標高772メートル)と、それに注ぐルジジ川の河谷があり、コンゴ民主共和国との国境をなしている。陥没帯の東側は巨大な断層崖(がい)で、その肩部はヘハ山(2670メートル)を最高峰とする標高2000メートル級の山脈となっている。中央部の高原は東に向かって緩やかに傾斜し、標高は平均1500メートルである。火山性の肥沃(ひよく)な土壌に覆われ、ナイル川源流の小河川が流れている。タンザニア国境にかけてはさらに低くなり、標高1000メートルの堆積(たいせき)平野となっている。
赤道直下であるが気候は全体に温和で、中央部の高原では年平均気温は20℃にとどまる。年降水量は1200ミリメートルで、3~5月と10~12月の年間2回に集中して降る。アフリカでは降水に恵まれた所で、山腹では熱帯雨林の景観もみられる。西部の大地溝帯では年平均気温は23℃とやや高くなるが、貿易風の風下にあたるため年降水量は750ミリメートルとやや乾燥し、ユーフォルビア(トウダイグサ科の植物)が点在するサバナの植生が広がっている。
ブルンジ最大の都市は2018年12月まで首都であったブジュンブラで、タンガニーカ湖の北岸に位置し、国際空港を備え、経済の中心地となっている(一部政府機関は遷都後もブジュンブラにある)。
[赤阪 賢・近藤有希子]
もともと狩猟採集民のトゥワが先住民であった。従来の説では、「7~10世紀にコンゴ盆地からバントゥー系の農耕民フツ人が来往、その後15~16世紀に北東よりナイロート系の牛牧民ツチ人が侵入、フツ人を征服し、土地の支配者、家畜の所有者としてフツ人を支配し、階層的なブルンジ王国を形成した」とされてきた。しかし、近年このような説は疑問視され、ツチとフツは出自の異なる別々の民族ではなく、生業の違いによる分類だと理解されている。ツチ人もフツ人もバントゥー系の言語を話す。ツチ人は牧畜中心、フツ人は農耕中心の生業を営み、両者は対立しつつ混交してきた。またブルンジにはツチ、フツ、トゥワという三つのエスニック・グループ(民族集団)とは区別される社会的カテゴリーとしてガンワという王家が存在した。ツチとフツの境界が明確に区分され対立を深めたのは、19世紀以来のヨーロッパ諸国による植民地政策によってであった。20世紀初め植民地当局は住民の身分証明書に、ツチ、フツ、トゥワいずれかの出自を書き込ませ、待遇に格差をつけることによって間接的に統治を強化したのである。
19世紀後半ブルンジはドイツの勢力圏下に入り、1890年ドイツ領東アフリカ(タンガニーカ)に編入された。その後1899年には同じようにツチがフツを支配するルワンダ(植民地時代はルアンダとよばれた)と併合され、新たな植民地ルアンダ・ウルンジが構成された。第一次世界大戦後、この植民地は国際連盟委任統治領としてベルギーの統治下に入り、第二次世界大戦後も国際連合信託統治領として同国に支配された。しかし、ドイツもベルギーも間接統治の方法をとったため、この間、伝統的な王国の権力は温存され、むしろ強化されたといわれている。
1959年にルアンダとウルンジはそれぞれ内政の自治権が認められたが、ウルンジではフツの民族主義的な運動は比較的遅く開始され、政治は王家がリードした。多くの政党が誕生したが、ルイ・ルワガソレLouis Rwagasore王子(1932―1961。暗殺)が結成した国民進歩統一党(UPRONA:Union pour le progrés national)が圧勢を誇り、同党はルワンダとの連邦制による独立を要求した。しかし1961年にルワンダがツチ人の王朝を倒してフツ人による共和制を宣言したため、両国は別々に独立することになり、翌1962年7月1日、ウルンジはブルンジ王国として独立した。独立後のブルンジでは国王が政治の主導権を確立させていったが、ブルンジ政界の権力闘争を基盤とした暴力的な体制移行と内閣の交代が相次いだ。政情不安が続くなか、1966年7月、国軍長官のミコンベロMichel Micombero(1940―1983)を中心とする勢力が政治の主導権を握り、外遊中の国王ムワンブツァ4世(1912―1977)を廃位して、皇太子シャルル・ンディゼエCharles Ndizeye(1947―1972)を同年9月にンタレ5世Ntare Ⅴとして即位させた。ところが同年11月には、新王は自らが首相に指名したツチ人のミコンベロによって追放され、ブルンジは共和国に移行した。
大統領に就任したミコンベロは、フツ人も含む政権を構成するなどエスニック・グループ間の対立解消を図っていたが、1972年のンタレ5世の帰国に伴う政情混乱(フツ武装勢力が南部で反乱を起こしておもにツチ人を殺戮、犠牲者数は約3000人ともいわれる事件)を機に、徹底的なフツ人弾圧を行った。虐殺されたフツ人は10万~20万人ともいわれ、約15万人の難民がタンザニアを中心とする近隣諸国に流出した。また政権獲得後、UPRONAを唯一の政党としていたが、1974年に共和国憲法を制定して、同党の党首が自動的に大統領に就任することにし、自身の独裁体制を強化した。しかし1976年11月、ツチ人の中佐バガザJean Baptiste Bagaza(1946―2016)が軍事クーデターを起こしてミコンベロを追放し、かわって大統領に就任した。
[赤阪 賢・近藤有希子]
バガザ政権も前政権同様ツチ人が主体であったがエスニック・グループ間の対立緩和に力を入れた。クーデターによって瓦解(がかい)したUPRONAは1979年に再建され、体制は民主化し新憲法が国民投票で承認された。1987年9月、大統領バガザが外遊中、少佐であったツチ人のブヨヤPierre Buyoya(1949―2020)が軍事クーデターを起こし、憲法停止、国家救済軍事委員会設立の事態となった。1988年に大統領に就任したブヨヤは国民和解を標榜(ひょうぼう)し、内閣にツチ人とフツ人を同数登用、国民統一憲章の制定、複数政党制を定めた憲法の制定などの政策を進めた。1993年の選挙では、27年ぶりの政権交代が行われ、野党のブルンジ民主戦線(FRODEBU:Front pour la démocratie au Burundi)が政権を握った。ブルンジ初の民主選挙で選出されたフツ出身の大統領ンダダエMelchior Ndadaye(1953―1993)は、就任後3か月でツチ人が掌握する軍の手で暗殺された。また、5万人以上のフツ人虐殺が行われ、大量の難民が流出するなど政治情勢が悪化した。後任大統領のンタリャミラCyprien Ntaryamira(1955―1994)もルワンダの大統領とともに、1994年4月の搭乗機撃墜に遭遇し死去した。ついで大統領に就任したンティバントゥンガニャSylvestre Ntibantunganya(1956― )も事態掌握に失敗し、1996年7月、軍のクーデターで元大統領のブヨヤが暫定大統領に就任した。民政復帰を求めてFRODEBUを支援してきた近隣諸国は、この軍事政権(UPRONA)に反対し、経済制裁により退陣を求めたが、暫定大統領ブヨヤはこれに応じず、1998年6月、新憲法制定までの移行期憲法の公布に続き、正式に大統領に就任した。2000年8月、南アフリカ共和国の大統領であったマンデラなどの仲介によって、フツ系反政府武装勢力を除いた紛争当事者によるアルーシャ和平合意が成立し、2001年11月、民主制度移行のための暫定政府が発足、ブヨヤはそのまま大統領に留任した。
2003年4月末、アルーシャ和平合意に基づいてFRODEBU事務局長で副大統領を務めるフツ人のンダイゼイエDomitien Ndayizeye(1953― )が大統領に就任。この間もフツ反政府武装勢力は戦闘を継続していたが、2003年11月、暫定政府と最大のフツ系反政府武装勢力である民主主義防衛国民会議・民主主義防衛軍(CNDD-FDD:Conseil national pour la défense de la démocratie-Forces pour la défense de la démocratie)が停戦合意した。2005年2月、エスニック・グループごとに政治ポストの割合を定めた権力分有制度が盛り込まれた新憲法が採択された。2005年8月の大統領選挙において、CNDD-FDDのフツ人ピエール・ンクルンジザPierre Nkurunziza(1963―2020)が当選し、大統領に就任。2006年9月、ンクルンジザ率いる政府と唯一武装闘争を継続していたフツ系反政府武装勢力の解放国民勢力(FNL:Forces nationales de liberation)ルワサ派との包括的停戦合意が締結された。2010年6月と2015年8月の大統領選挙においてンクルンジザが再選された(三期目)。
政体は共和制。議会は上院と下院(国民議会)の二院制で、議席数は上院54、下院118(任期5年)。大統領の任期は5年。
[赤阪 賢・近藤有希子]
ブルンジでは、国民の9割以上が農業に従事し、国土の半分近くが耕地にあてられ、過密な人口を支えている。農産物の大部分は自給用の食料で、キャッサバ、バナナ、サツマイモ、豆類、トウモロコシ、ソルガム(モロコシ)、ミレット(キビの一種)、タバコなどが細分化された耕地で生産される。そのほかに灌漑(かんがい)によるイネの栽培が、インボ平原やルジジ平原、東部の平地などで行われている。主要な換金作物はコーヒーで、ベルギー領時代にプランテーションで栽培が開始され、1992年には3万4000トンを生産した。コーヒーは輸出全体における最大の外貨獲得資源であり、大半がアメリカに出荷される。しかし、その生産量は不景気やコーヒーの木の老朽化などが原因で毎年顕著な変化を示し、2006年には2万9951トン、2007年は8210トン、2008年は2万4700トンと回復したが、2009年には6814トンにまで減少している。茶の栽培は1963年より西部のテザとムランビヤ高地の農園で導入され、順調に成長を続けた。綿花はインボ平原、ルジジ平原で生産され、輸出のほとんどはベルギー向けである。しかし、いずれの生産量も、2009年で茶6729トン、綿花2547トンと小さく、近年は生産量の増加もほとんどみられない。中西部の高原地帯を中心に牧畜も盛んで、2009年にはウシ55万頭、ヤギ272万頭、ヒツジ29万頭、ブタ21万頭が飼育され、皮革の一部が輸出されている。
なお、1968年より五か年計画による国の経済開発が行われてきたが、1983年から始まった第四次計画では、農村の開発に重点が置かれるようになった。2007~2009年には世界銀行と国際通貨基金(IMF)主導のもと、第一次成長・貧困削減戦略(GPRS)が実施され、グッド・ガバナンス(良い統治)、公正で持続的な成長、人的資源開発、エイズの抑制が重点分野とされた。
他の産業では、漁業がタンガニーカ湖で行われ、ドイツも漁業資源に対する援助を行っている。工業は未発達で、コーヒー、綿花、茶などの農産物加工と、ビールや清涼飲料水の製造などに限られている。鉱産物資源ではニッケルの埋蔵量が豊富で、開発が期待される。1人当り国内総生産(GDP)は144ドル(2008)で、GDP成長率は3.4%(2009)である。
内陸国で、東のダルエス・サラーム港(タンザニア)からは1400キロメートル、西のマタディ港(コンゴ民主共和国)からは2000キロメートル離れているため、貿易は不振で、毎年大幅な輸入超過が続いている。貿易相手国は、かつてはベルギーが中心であったが、近年では輸出はドイツ、スイス、ベルギー、スウェーデン、輸入はサウジアラビア、ベルギー、ウガンダ、ケニアなどがおもな貿易相手国となっており、ベルギー以外の国との取引も多い。
2007年にルワンダとともに東アフリカ共同体(EAC)に加盟したことも受けて、観光産業に力を入れ始めている。外国人来訪者の数は、1990年には10万人、その後紛争時には1.5万人にまで減少したものの、2007~2008年には22万人と増加した。使用通貨はブルンジ・フラン。
[赤阪 賢・近藤有希子]
住民構成はルワンダとほとんど同じで、フツ人が人口の85%を占め、ツチ人が14%で、トゥワ人は1%とされる。三つのグループはともにルンジ語を話すが、これはルワンダのニャルワンダ語と言語的に近縁で、ともにバントゥー語に属する。公用語はルンジ語とフランス語であるが、スワヒリ語もよく普及している。宗教はキリスト教がほとんどで、カトリックが人口の65%に浸透、プロテスタントが20~25%、イスラム教が5%、残りは伝統的な宗教を奉じている。教育も従来はキリスト教団体が中心となって行ってきたが、2005年以降、7歳からの初等教育(6年間)は無償で受けられるようになり、政府も多くの助成金を出している。その結果、学校への入学者率は年々改善されており、2005年の59.8%から、2009年には89.7%に達している。高等教育機関は、1964年にブジュンブラに国立大学が開設され、公私立を含む多数の大学などが存在する。
[赤阪 賢・近藤有希子]
ブルンジの日本への輸出はコーヒーや茶を中心に880万ドル(2010)、日本からの輸入は自動車や二輪車(オートバイ)で11億円(2010)である。1980年代に無償資金協力で日本は135台のバスを供与。ツチとフツ両民族間の紛争(1993~2005)後、日本はブルンジに対して「平和の定着」と「基礎生活環境の改善」を支援の柱に据え、おもにインフラの整備と人材育成に力を入れている。2009年(平成21)より国際協力機構(JICA)は「公共交通公社運営能力再生プロジェクト」を開始し、2010年には86台のバスが供与された。
文化交流は希薄であるが、ブルンジのドラム楽団がこれまでに数回の来日を果たしている。2019年時点で、ブルンジは在中国ブルンジ大使館が日本を兼轄、日本は在ルワンダ日本大使館がブルンジを兼轄している。
[近藤有希子]
『武内進一編『現代アフリカの紛争を理解するために』(1998・アジア経済研究所)』▽『武内進一編『現代アフリカの紛争――歴史と主体』(2000・アジア経済研究所)』▽『望月克哉編『人間の安全保障の射程――アフリカにおける課題』(2006・アジア経済研究所)』
基本情報
正式名称=ブルンジ共和国République du Burundi
面積=2万7834km2
人口(2011)=850万人
首都=ブジュンブラBujumbura(日本との時差=-7時間)
主要言語=ルンジ語,フランス語,スワヒリ語
通貨=ブルンジ・フランBurundi Franc
アフリカ中部の共和国。独立以前はウルンジUrundiと呼ばれていた。赤道に近く,インド洋まで1200km,大西洋までは2000kmを超える内陸国である。面積は北海道の約3分の1にすぎないが,人口密度はアフリカでは最も高い国の一つである。
西部はアフリカ大地溝帯の西翼に属する陥没帯(標高800~1000m)で,ルジジ川低地とタンガニーカ湖北東岸を含み,タンガニーカ湖を経てコンゴ川へ排水される。陥没帯の東側は急斜する断層崖で,肩部は標高2000mを超え(最高点は2670m),東に緩く低下する高原面に続く。この高原面は白ナイル水系に属し,主としてカゲラ川の上流ルブブ川によって排水される。気候は赤道型で,気温の年較差は少ないが,高度によって差がある。低地部の標高800mでは月平均気温は1月に約24℃,7月に約22℃,標高2000mでは1月に約17℃,7月に約14℃を示す。季節は1~2月の小乾季,3~5月の大雨季,6~9月の大乾季,10~12月の小雨季に分けられるが,降水量は高度や斜面方向によって差がある。年降水量は湖岸で1300mm程度,高原の肩部で約1600mm,東に高度を下げるにつれて減少し,東部国境部で約1000mmとなる。アフリカでは降水に恵まれた所といえるが,住民による森林破壊が進み,土壌浸食がはげしい。
執筆者:戸谷 洋
住民の85%はバントゥー系のフツ族Hutuが占め,14%をナイル語系のツチ族が占め,ピグミー系のトワ族Twaは1%以下にとどまっている。長身で明るい肌色のツチ族は,15世紀から16世紀にかけて北方より移住してきた牧畜民であるが,農耕民で多数派のフツ族を征服して従属させた。少数派のツチ族は土地の支配者であり,財産としての家畜の所有者であった。こうして明確な階層が形成され,支配層のツチ族から出た王は強大な権力を行使した。このブルンジ王国の伝統的な社会組織はドイツやベルギーの植民地統治時代にも温存され,ツチ族の支配層の地位はむしろ強化された。独立の前後,および1972年,88年には多数派のフツ族の不満が爆発し,ツチ族との大規模な衝突に発展した。本来,狩猟採集民であったトワ族は,土器製作などに従事している。これら三つの部族はともにルンジ語を用いるが,これはニャルワンダ語と言語学的に近縁で,ともにバントゥー語に属する。公用語はルンジ語とフランス語であるが,さらにスワヒリ語が共通語として広く普及しつつある。宗教はカトリックが深く浸透しており,住民の半数が改宗している。また少数ながらイスラム教徒も居住している。
執筆者:赤阪 賢
7~10世紀にコンゴ盆地地域から移動したバントゥー系農耕民のフツ族が定着していたが,15~16世紀にエチオピアに起源をもつといわれる遊牧民のツチ族が侵入し,フツ族を征服して支配者となり,少数部族ツチ族の王(ムワミMwami)による王制(ブルンジ王国)が組織された。1871年にスタンリーとリビングストンがタンガニーカ湖岸のブジュンブラに上陸し,その後ドイツの探検隊がこの地を訪れた。84-85年のベルリン会議の後,ブルンジ王国はドイツの勢力圏下に入り,90年にドイツ領東アフリカの一部となった。植民地政府は王の権限を保全して間接統治を行い,99年にはルワンダを併せてドイツ領ルアンダ・ウルンジRuanda-Urundiを構成した。
第1次大戦中の1916年,西隣のベルギー領コンゴから進攻してきたベルギー軍が占領し,23年に国際連盟はベルギーに委任統治権を与えた。ベルギーはドイツと同様に間接統治方式を採択し,伝統的社会政治構造をそのまま維持した。第2次大戦後はベルギーの国際連合信託統治領となり,59年にウルンジとルアンダは別個に内政の自治権を認められ,多くの政党が誕生した。61年国連管理下で実施された選挙で,王の長子が率いる国民統一進歩党(66年に国民進歩同盟として再組織された。略称はいずれもUPRONA)が,共和制を主張する民主キリスト教党(PDC)に対して圧倒的勝利をおさめ,ルイ・ルワガソレ王子が首相に就任したが,その直後PDC指導者によって暗殺された。国連はルアンダと合体して独立することを希望していたが,ルアンダでは共和派が議会で多数を占めたため,それぞれ別個に独立することになり,62年7月1日にムワンブツァ4世を王とするブルンジ王国として独立した。
ツチ族とフツ族との対立は独立前後から激しくなり,首相の交代,暗殺が続いた。66年7月,19歳の皇太子チャールズ・ヌディゼイェは国外で療養中のムワンブツァ王を廃位,自らヌタレ5世として即位,ミコンベロMichel Micombero(1940-83)大佐を首相に任命した。しかし同年11月,ミコンベロは新王を追放して共和制を宣言,自ら大統領になり,UPRONAを唯一の政党とした。
一方,フツ族とツチ族間の緊張は依然として続き,72年4月のフツ族によるクーデタ未遂事件は,両者間の大規模な衝突に発展した。死者は1万人を超え,少なくとも8万5000人のフツ族難民が隣国のタンザニアやザイール(現,コンゴ民主共和国)へ逃れた。
ミコンベロ大統領は74年7月に共和国憲法を制定してUPRONAの一党支配体制を固め,11月には新憲法の規定による大統領に改めて就任した。しかし76年11月,バガザJean-Baptiste Bagaza(1946- )中佐の率いる軍事クーデタによってミコンベロは追放され,新設された最高革命評議会(CSR)はバガザを大統領に指名した。新政権も旧政権同様にツチ族が主体であったが,部族対立の克服を訴え,フツ族からも閣僚を選んだ。79年12月にUPRONAの第1回全国大会が開かれ,CSRの解散,民政への復帰が決議された。81年11月には新憲法が国民投票を経て施行された。憲法は社会主義路線を確認し,UPRONAを唯一の政党として認めていた。
87年9月,バガザ大統領が外遊中に軍部がクーデタを起こし,ブヨヤPierre Buyoya(1949- )が大統領に就任した。88年8月,北部でフツ族に対する大量殺戮事件が発生したが,ブヨヤ大統領はフツ族を閣僚に登用するなど,融和に努めた。
外交面では1976年にルワンダ,ザイール(現,コンゴ民主共和国)とともに大湖地域諸国経済共同体(CEPGL)を,78年にルワンダ,タンザニア,ウガンダとともにカゲラ川流域組織(KRBO)を結成し,近隣諸国との地域開発協力を推進している。フランス,ベルギーなどEU諸国との経済的・財政的関係が強い。
基本的に農業国であり,人口がきわめて過密で,海港(タンザニアのダル・エス・サラーム)から1000km以上離れた内陸国である。農業活動の大部分は自給農業であり,農業総生産の約15%が商品化されていると推定されている。労働力人口の90%以上が農業に従事しているが,生産規模は小さく,80%の農家は保有耕地1.5ha以下とされる。主要な輸出作物はコーヒー(大部分アラビカ種)で,輸出総額の80%程度を占めている。その他の輸出用作物としては茶,綿花,タバコがあり,皮革,食肉も輸出される。食糧作物としてはキャッサバが最も多く,サツマイモ,バナナ,豆類,モロコシなども主要食糧として生産され,ほぼ国内需要を満たしている。
1968年以降五ヵ年経済開発計画が実施され,経済の基礎構造の整備,農業や工業の開発に投資されてきた。世界銀行による1人当りGNP推計は150ドル(1994)で,低所得発展途上国である。
1954年まで教育はすべてミッション・スクールによって行われ,初等教育に限定されていた。義務教育は7歳から13歳までだが,就学率は33%(1988)であり,15歳以上の識字率は35.3%(1995)と低い。唯一の高等教育機関として,首都ブジュンブラにブルンジ大学(1960創立)がある。
執筆者:中村 弘光
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アフリカ中部の内陸国。19世紀末にドイツに植民地化されたが,第一次世界大戦後はベルギーが実質的な植民地経営を行った。1962年に独立したが,ツチ人が中枢を占める軍部中心の体制が続いた。93年の民主的な選挙で独立後初めて人口的多数派であるフツ人のンダダエ大統領が選出された。しかし選挙後4カ月余にしてンダダエが暗殺され,その後はタンザニアのニエレレ,南アフリカのマンデラなど大物政治家の仲裁にもかかわらず政治的混乱が続いている。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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