日本大百科全書(ニッポニカ) 「ツチ・フツ」の意味・わかりやすい解説
ツチ・フツ
つちふつ
Tutsi
Tuutsi
Hutu
中部アフリカのルワンダやブルンジで人々の分類に用いられる呼称。従来、ツチとフツは出自の異なる別々の民族だとされてきたが、近年そうした説は疑問視され、ツチとフツは生業の違いによる分類だと理解されつつある。ただ実際には、エスニック・グループ(民族集団)として扱われ、よびならわされている。
[武内進一]
言語と生業
ルワンダでもブルンジでも、人口統計によれば、総人口のおおむね8割強をフツ、1割強をツチ、そして1~2%をトゥワが占めるとされる。トゥワは先住民(いわゆるピグミー)である。従来の学説では、フツはバントゥー系諸語を話す人々の移動に伴って紀元前後のころに中部アフリカにやってきた農耕民で、その後10世紀ごろにナイロート系牧畜民のツチが北方から移住してフツとトゥワを支配し、王国を築いたとされてきた。
しかし、実際には両者は同じバントゥー系言語を話し、同じ領域に居住する。ツチが「10世紀ごろに移住してきたナイロート系民族」であることを示す言語学的証拠はまったくない。両者の境界も、20世紀初めに植民地当局がツチ、フツ、トゥワの区分をひとりひとりの身分証明書に書き込むまではあいまいなものにすぎず、ツチからフツへ、フツからツチへという移動がしばしばみられた。
大湖地域(ビクトリア湖やタンガニーカ湖などが点在するアフリカ中央部)の住民に生じた生業の分化にツチ、フツの起源を求める説が有力である。大湖地域は民族移動の合流点であり、紀元前からバントゥー語系、ナイロート語系、クシ語系などさまざまな言語の話者集団が固有の生業をもって居住していた。少なくとも紀元後5世紀ごろには、バントゥー系言語の話者が大湖地域の支配的言語文化集団となっていたが、その後10世紀ごろには、土地不足を背景として、牧畜に生業の重きを置く集団と農耕を中心とする集団とが分離するようになる。ブガンダのように農耕民が中心になって形成された国家もあったが、ルワンダやブルンジでは牧畜民を中心として王国が建設された。
[武内進一]
社会
ルワンダの王はツチのリネージ(共通の祖先と各成員の間の系譜関係がはっきりしている出自集団)から選ばれたが、ブルンジの王はガンワとよばれる王族集団から選ばれた。ルワンダのツチは一つの民族というより支配集団としての性格が強く、また長身痩躯(そうく)の体型を理想化するような人種的イデオロギーを有していた。しかし、ツチのなかにも階層分化があり、牛をあまりもてない貧しい者も多かったし、フツとの混交も例外的ではなかった。ブルンジではガンワはともかく、ツチが支配集団であったとはいえず、国家機構もより分権的であった。
[武内進一]
植民地支配と紛争
ツチとフツの境界が明確化し、両者の対立が深まるのは植民地政策に負うところが大きい。ルワンダ、ブルンジを統治したヨーロッパ諸国(第一次世界大戦まではドイツ、以後は国連統治領として実質的にベルギー)は、通説のとおり、「ツチがフツを支配する」ものとして両国の伝統的社会構造を理解した。そして、間接統治政策のなかで住民をツチ、フツ、トゥワに分類し、その区分に従って行政ポストの配分や教育機会を差別した。ツチを「伝統的支配層」とみなし、ツチに高位の行政ポストや学校教育機会を優先的に与えたのである。とくにルワンダではその傾向が強く、ツチとフツとの社会的格差拡大に伴って両者の対立が深まっていった。
ツチとフツとの集団としての暴力的紛争は、1959年ルワンダで歴史上初めて勃発(ぼっぱつ)した。独立を前にした主導権争いのなかで、ツチ主体の政党とフツ主体の政党が対立し、その支持者が衝突したのである。ベルギーがフツ主体の政党支持へと態度を変えるなかで、多くのツチが近隣諸国へ亡命し、ルワンダはフツ主導の政権で独立を迎える。ルワンダのツチ・フツ対立は似たような社会構造をもつブルンジへも飛び火し、ここでも対立と衝突を引き起こしていった。これが、1990年代のルワンダにおける大虐殺、ブルンジにおける長期的な内戦へとつながるのである。こうした対立の主体となるツチ、フツという集団が現出するにあたっては、植民地期以降の政策や近年の暴力的対立に伴う集合的記憶がきわめて大きな役割を果たしたといえる。
[武内進一]
『武内進一著『現代アフリカの紛争』(2000・アジア経済研究所)』▽『J・マケ著、小田英郎訳『アフリカ――その権力と社会』(1973・平凡社)』▽『伊谷純一郎・米山俊直編『アフリカ文化の研究』(1984・アカデミア出版会)』