ミラノにある、13世紀から20世紀までのイタリア絵画を中心とした絵画館。「ブレラ」の呼称は、創立当時は町はずれ(brayda del guercio)に位置していたことに由来する。美術館のスペースは、もともと17世紀のなかばにイエズス会の修道士のために建てられた宮殿建築(パラッツォ)の2階に位置する。1階にある美術学校(アカデミア)は、いわば美術館の前身で、イエズス会を制圧したマリア・テレジアが、そこに図書館、測候所、文学・科学研究所などからなる総合文化機関を構想し、1776年その一機関として設立された。美術学校は、初代学長ビアンコーニ以来、教材として美術品を収集していたが、19世紀初頭の政治変革による宗教施設などの廃止に伴い、さらに多くの作品が集まることとなった。そうした所蔵品をもとに、フランス皇帝にしてイタリア王でもあったナポレオンの命によって、1809年アカデミアの管理下に美術館が開設され、1813年にはルーブル美術館と収蔵品が交換されて北方絵画が加わった。1882年美術アカデミアから独立して市立の美術館となった後も、近現代の絵画など収蔵品の充実が図られてきた。
作品群の中心を占めるのはベネチア派など北イタリアのルネサンス絵画で、後期ゴシックの豪華な装飾性を湛(たた)えるクリベッリの『聖母戴冠(たいかん)』、短縮法の表現で知られるマンテーニャの『死せるキリスト』、ベネチア派特有の油彩表現の確立に寄与したジェンティーレとジョバンニのベッリーニ兄弟による大作で、都市景観画の先駆的存在である『アレクサンドリアにおける聖マルコの説教』、ジョバンニ・ベッリーニの『ピエタ』、建築物を巧みに用いた設定で宗教的物語を描いたカルパッチョの『聖母の神殿奉献』、ティツィアーノの『アントニオ・ポルチア伯爵の肖像』、ティントレットの『聖マルコの遺骸(いがい)の発見』、ベロネーゼの『キリストの洗礼と試練』のほか、ビンチェンツォ・フォッパVincenzo Foppa(1427/30―1515/16)、ベルナルディーノ・ルイーニなど15~16世紀のロンバルディア地方の画家の作品などによって、その変遷を辿(たど)ることができる。
そのほか、国際ゴシック様式を代表するジェンティーレ・ダ・ファブリアーノによる多翼祭壇画『聖母戴冠と諸聖人』、天井から吊(つ)るされた駝鳥(だちょう)の卵が目を惹(ひ)くピエロ・デッラ・フランチェスカの『モンテフェルトの祭壇画』、ラファエッロの修行時代を総括する作品で、師ペルジーノ譲りの優美で繊細な人物と、ブルネレスキ様式の建物による遠近法的空間がみごとに融合した『マリアの結婚』、イタリア・バロックを代表するカラバッジョの代表作『エマオの晩餐(ばんさん)』、近現代では、メダルド・ロッソの彫刻や未来派の中心人物であるボッチョーニやカッラ、そしてモランディやマリーニというように、イタリア美術を代表する作品が展示されている。
[保坂健二朗]
『『ラミューズ42――世界の名画と美術館を楽しむ ブレラ美術館』(1994・講談社)』▽『『週刊世界の美術館67 ブレラ美術館』(2001・講談社)』
イタリアのミラノにある美術館。美術館の建物は,イエズス会のために17世紀中ごろに着工されたが,1773年イエズス会の解散にともない,諸研究機関がここに移され,また76年にはロンバルディアを直領下としていたオーストリアのマリア・テレジアにより美術アカデミーも設立された。ブレラ美術館の起源は,このアカデミーの学生の教育目的のためのコレクションであった。1809年に美術館として正式に開かれ,82年以降アカデミーから独立して重要な作品の収集に努め,第1次大戦後にコレクションは大幅に増大した。1943年に建物は空爆により甚大な被害を受けたが,50年に再開された。収集品の中核は,15世紀から18世紀に至るロンバルディアとベネチア派の絵画で,とくに後者は質量において本拠地ベネチアに次ぐものであり,またピエロ・デラ・フランチェスカやラファエロの傑作も含まれている。
執筆者:生田 圓
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
… 短期間の共和政の後,1450年,ビスコンティ家のもとでの将軍であったフランチェスコ・スフォルツァがシニョーレとなり,1535年スペインのハプスブルク家の支配下にはいるまで,スフォルツァ家がミラノを支配した。この時期に現存するミラノ城の再建,大病院の建設などがなされ,ブラマンテ,レオナルド・ダ・ビンチをはじめとする芸術家も集まって,ミラノは黄金時代を迎えた(1809年に開設されたブレラ美術館Pinacoteca di Breraなど,現在も多くの美術館がある)。 スペイン支配および17世紀前半における疫病の蔓延などもあって,ミラノは一時沈滞期を迎えるが,1707年に始まるオーストリア支配のもとで,さまざまな経済改革が実施され,繊維産業をはじめとする工業も興り,ミラノは経済的におおいに発展した。…
… 短期間の共和政の後,1450年,ビスコンティ家のもとでの将軍であったフランチェスコ・スフォルツァがシニョーレとなり,1535年スペインのハプスブルク家の支配下にはいるまで,スフォルツァ家がミラノを支配した。この時期に現存するミラノ城の再建,大病院の建設などがなされ,ブラマンテ,レオナルド・ダ・ビンチをはじめとする芸術家も集まって,ミラノは黄金時代を迎えた(1809年に開設されたブレラ美術館Pinacoteca di Breraなど,現在も多くの美術館がある)。 スペイン支配および17世紀前半における疫病の蔓延などもあって,ミラノは一時沈滞期を迎えるが,1707年に始まるオーストリア支配のもとで,さまざまな経済改革が実施され,繊維産業をはじめとする工業も興り,ミラノは経済的におおいに発展した。…
※「ブレラ美術館」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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