イタリアの画家。パドバ近郊の生れ。1448-60年ごろ,パドバで活動。13世紀創設の大学の所在地でもあるパドバは,中世以来人文主義が盛んで,彼が師事したスクアルチオーネも古代の美術品を収集して弟子の教育に用いたと伝えられる。またこの町にはジョットのスクロベーニ礼拝堂壁画が残り,また1440年代にはドナテロが滞在して制作活動を行うなどの芸術的土壌があって,それらがマンテーニャの画家としての形成に影響を与えたと思われる。パドバ時代の代表作は,エレミターニ教会のオベターリ礼拝堂内《クリストフォルスの殉教》他の壁画(第2次大戦で大部分焼失)である。ここには,画面に古代遺物を克明に描きこむ考古学的関心,硬質な形態感覚,遠近法や短縮法の効果的使用など,後のマンテーニャにみられるあらゆる要素が見いだされる。60年以降,ゴンザーガ家の宮廷画家として,マントバに定住。当地もまた当時の文化的中心地に数えられ,君主ルドビコ(ルイジ3世)・ゴンザーガは歴史,考古学,ラテン文学に関心をもち,人文主義者ビットリーノ・ダ・フェルトレに師事したほどの人物であった。マンテーニャは,73年ゴンザーガ家居城内の一室,カメラ・デリ・スポージの装飾を完成。この壁画連作は君主ルドビコの称揚を主題とするもので,同家の人々の生気ある肖像が描きこまれている。またこの室の円天井は,天空に向かって開いた円窓に擬したもので,バロック美術を先駆する仰瞰的構図によって描かれた。ルドビコの孫フランチェスコ2世が84年に注文した《カエサルの勝利》連作は,その無数の古代趣味のモティーフによって画家の考古学的研究の集大成と呼ぶべき作品である。フランチェスコの妻イザベラ・デステの書斎のための小品,《パルナッソス》と《徳の勝利》は,注文者の意図する複雑な観念的テーマを扱う。優れた素描家でもあり,彼の原画による銅版画はイタリアの初期銅版画史において重要。彼はまた義理の兄弟ジョバンニ・ベリーニへの影響を通じて,16世紀ベネチア派隆盛の基礎を築いた。
執筆者:鈴木 杜幾子
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イタリアの画家。パドバ近郊に生まれ、少年期から生地の画家スクワルチオーネに師事し、その養子となる。1448年、早くも同市エレミターニ聖堂オーベターリ礼拝堂(1944年戦争で罹災)の装飾を数人の画家たちとともに委嘱され、56年までに「聖ヤコブの生涯」「聖母被昇天」「聖クリストフォルスの殉教」の諸場面を仕上げた。59年にはベローナのサン・ゼーノ・マッジョーレ聖堂の祭壇画『聖母子と諸聖者』を制作したが、これらの作品には師匠スクワルチオーネ由来の考古学的知識や、おりしもパドバ滞在中のドナテッロの感化による彫塑的な表現が際だっている。
1460年にはマントバの領主ゴンザーガ家の宮廷画家に登用され、以後、短期間ローマやトスカナに滞在したことはあるが、終生この文化都市で過ごした。マントバにおける大作は1471~74年に制作したパラッツォ・ドゥカーレのカーメラ・デリ・スポージ(夫妻の居室)の壁画と天井画である。壁画は領主一族の屋内と屋外での集団肖像画であるが、人物の配列や個性描写の適確さにおいて、イタリア・ルネサンス絵画のなかでも傑出している。84年に新領主となったフランチェスコの要請により装飾画『カエサルの凱旋(がいせん)』(17世紀にイギリス国王チャールズ1世に売却され、ロンドン西郊ハンプトン・コートに現存)を描いたが、古代ローマについての正確な知識をもとにした独特の装飾効果を示している。そのほか彼の作品はヨーロッパ各地の美術館に散在するが、とくにミラノのブレラ美術館の『死せるキリスト』(1465~66)は、モノクロームに近い色彩効果によって精神の厳粛さと安らぎが暗示される、含蓄に富む表現をみせている。また彼は銅版画にも優れた作品を残している。
[濱谷勝也]
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… ルネサンス期になって急速に増加する,古代の神話や英雄伝説に題材をとった美術においては,神々や英雄は古代にもっていた外見をいちおう取り戻してはいるが,本質的には先にあげた三つの神話解釈の粋内にある作例が多い。たとえばフェラーラのスキファノイア宮殿のフレスコ(コッサ画,1470ころ)にはギリシアの神々が黄道十二宮や一年の各月との関連において描かれているし(自然的伝統),マンテーニャはイザベラ・デステのための作品《徳の勝利》(1502)において,ビーナス(ウェヌス)を打ち負かすミネルウァの姿を借りて悪徳に対する知恵の勝利という中世のプシュコマキアpsychomachiaの伝統をひく主題を描いている(道徳的伝統)。さらに1500年代のイタリアで制作された本格的な神話画であるボッティチェリの一連の作品(《春》《ビーナスの誕生》《パラスとケンタウロス》など)における人文主義的な寓意も,当時のフィレンツェの新プラトン主義思想を反映していると同時に,神話に教化的な意味を担わせている点では〈道徳的伝統〉の系列に属するともいえよう。…
…パドバでの代表作は,イル・サント(サンタントニオ)教会の高祭壇(1446‐50ころ)で,聖母子と聖人の7体の青銅像,22点の青銅浅浮彫,そして《キリスト降下》の石浅浮彫から構成される。そこに見られる人間性をたたえた厳しい人物像の造形表現や,浮彫の大胆な空間処理と動勢描写は,その後の北イタリアの美術に強い影響を残し,とくにマンテーニャの彫刻的な量感と印刻的な輪郭線をもつ画像に,それが顕著である。もう一点の大作《ガッタメラータ騎馬像》(1447,パドバ,ピアッツァ・デル・サント)では,理想性に内面的写実性を加味して,傭兵隊長の実在感を力強く表現し,古代ローマのマルクス・アウレリウス騎馬像に匹敵する記念騎馬像を現出させた。…
…ドナテロは1443年から約10年間滞在して,ピアッツァ・デル・サントの《ガッタメラータ騎馬像》,イル・サント(サンタントニオ)教会の高祭壇などを制作する。このようなトスカナの美術の新風に触れて育ったマンテーニャは古代美術を崇拝し,遠近法や彫塑的表現にすぐれ,若い時期にエレミターニ教会の礼拝堂に〈聖母被昇天〉などの壁画(第2次大戦中空爆にあう)を制作して,パドバ派を代表するにいたる。また,イル・サント教会のサン・ジョルジョ祈禱所(14世紀)にアルティキエリの,同じくスルオラ・サンタントニオ(15世紀)にティツィアーノの壁画がある。…
…ルイジ3世(在位1444‐78)はルネサンスを代表する英明君主で,都市を整備するとともに,建築家L.B.アルベルティを招請し,サン・セバスティアーノ聖堂,サンタンドレア聖堂の設計を委嘱。また,A.マンテーニャを宮廷画家として抱え,〈カメラ・デリ・スポージ〉に一族の生活を主題としたフレスコ画を描かせた。フランチェスコ2世(在位1484‐1519)の夫人イザベラ・デステは,ルネサンス期に活躍する女性の中でも最も魅力的な人物で,作家,芸術家に取り囲まれ,洗練された宮廷文化を繰り広げた。…
※「マンテーニャ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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