プロレタリア音楽(読み)プロレタリアおんがく

改訂新版 世界大百科事典 「プロレタリア音楽」の意味・わかりやすい解説

プロレタリア音楽 (プロレタリアおんがく)

プロレタリアートの階級的自覚と労働者階級の利益に奉仕するための音楽活動ソビエト・ロシアでまず政権樹立直後の1918年,第1回大会を開いたプロレタリア文化団体〈プロレトクリト〉の運動の一環として発展し,革命的歌曲の創造や労働者の合唱運動などの啓蒙活動を繰り広げた。これは世界各地に波及し,ドイツの労働者,歌手同盟とそれに参加した作曲家アイスラー,ティーセンHeinz Tiessen(1887-1971)らの行動も,その一つである。1925年には,ソビエトでは,ダビデンコA.A.Davidenko,ベールイV.B.Belyiらがモスクワでロシア・プロレタリア音楽家協会(RAPM)を組織した。しかし,1932年の党の決定に基づく文学・芸術団体の解散再編にともなって,ソビエト作曲家同盟(1957年,ソ連邦作曲家同盟と改称)へ吸収され,発展的に解消した。

 日本では,日本プロレタリア文芸連盟中野重治,久板栄二郎,千田是也,佐野碩ら)が1926年11月に日本プロレタリア芸術連盟(略称〈プロ芸〉)に改組された際に音楽部が加えられた。また27年6月にはプロ芸から労農芸術家連盟(青野季吉,村山知義,蔵原惟人ら。略称〈労芸〉)が分裂,同年11月にはこの労芸から林房雄,蔵原惟人,山田清三郎らが脱退して前衛芸術家同盟を結成したが,この同盟にも音楽部が設立された。次いで28年3月,前記のプロ芸と前衛芸術家同盟が合同して,全日本無産者芸術連盟(略称〈ナップ〉)が結成され,その専門部の一つとして音楽部が設置された。29年4月にはこれがナップの組織替えの方針により日本プロレタリア音楽家同盟(略称〈P.M.〉)として独立。音楽家同盟は31年以降の日本プロレタリア文化連盟(略称〈コップ〉)の時代にも,その加盟団体として活動を続け,33年には日本プロレタリア音楽同盟と改称している。構成員としては,作曲家守田正義,露木次男,原太郎,吉田隆子,石井五郎らのほか,演奏家の関鑑子(あきこ),井上頼豊,福田上一らが加わり,合唱曲や歌曲の創作と労働者階級の音楽創造を目標にさまざまな活動を試みた。守田の《里子にやられたおけい》《小さな同志》,吉田隆子《鍬》《兵士を送る》,原太郎《芝浦》などの反戦歌,闘争歌などが生み出された。32年以降のコップへの政府の弾圧によって,ヤップ(美術),プロット(演劇)など各連盟は解体のやむなきに至り,34年2月にはナルプ(文学)も解散を決定。P.M.も解消を決議した。第2次世界大戦後,P.M.のこうした活動は〈うたごえ運動〉などに受け継がれていった。
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