翻訳|Helsinki
フィンランドの首都。人口55万9718(2001)。フィンランド湾に臨む入り江の奥に建設された都市で、スウェーデン語名ヘルシングフーシュHelsingfors。地盤の隆起や冬季の氷結のために、より条件のよい岬の先端の現在位置に、1640年港と市街が移転した。一名「バルト海の娘」と称される。
旧市街は三方を港で囲まれ、かつて聖ニコライ教会とよばれた大寺院とその前の上院広場、これらを取り囲む官庁・大学などの建造物が方形のブロック内に計画的に配置されている。市の発展に伴って市街は北方に拡大したが、近年は長大橋で結ばれた東西両方向の島嶼(とうしょ)上にも住宅地が展開している。市内には緑豊かな大公園が多く、郊外住宅地もシラカバやマツの林の中に点在する。都市環境の維持に力が注がれ、人口の流入を抑制しているが、鉄道駅の北方への移転と市街地の再開発が検討されている。都市機能の集中に対応する人口の市内流入が困難なため、西方のエスポーEspoo(人口21万6836、2001)や北方のバンターVantaa(17万9856、2001)などの衛星都市の人口増加が著しい。なかでも、エスポーに属するタピオラTapiolaは林間住宅地区として知られる。周辺からヘルシンキへの通勤人口の多くは発達したバス路線に依存しているが、地下鉄も建設された。
第三次産業が就業人口の70%を超えるが、港湾依存の造船、金属、機械のほか、食品、繊維、陶器などの工業も盛んであり、工業生産額でもタンペレをしのいで第1位である。しかし西港と北港周辺に大工場の集中立地がみられる程度で、過度の工業集積はない。
[塚田秀雄]
1550年スウェーデン王グスタフ1世(グスタフ・バーサ。在位1523~1560)によって建設された。当時宗教改革の嵐(あらし)のなかでフィンランド湾南岸のドイツ騎士団領は崩壊しつつあり、そこを通過して行われるロシア貿易にスウェーデンは重大な関心を示した。その貿易をフィンランド経由にすることによって利益を得ようとするのがヘルシンキ建設の目的であった。しかし同市は容易に発展せず、その後、フィンランド湾南岸に臨むエストニアの港タリンを手中にすると、ヘルシンキに対する関心は失われた。また火事や疫病もあり、18世紀の大北方戦争の際にはロシア軍の占領を受け、町は灰燼(かいじん)に帰した。1748年ビアポリ要塞(ようさい)が都市防衛のため築かれたのを契機として新たな発展を始め、また往来する啓蒙(けいもう)主義的将校たちによってプチブル的文化がもたらされた。ロシアによるフィンランド併合まもない1812年トゥルクから遷都され、諸官庁や大学が徐々に移され、都市計画に基づいてネオ・クラシック様式の建物が次々とつくられた。産業革命の進行とともに市街区域も大きく発展する。独立翌年1918年の内戦では、初め赤衛軍の拠点となり、第二次世界大戦ではソ連機の爆撃を受けたが占領は免れた。戦後、第15回オリンピック大会(1952)、ヨーロッパ安全保障協力会議(1975、1985)などの開催地となった。
[玉生謙一]
フィンランド南部,フィンランド湾に面した港湾都市で,同国の首都。文化・芸術の中心でもある。人口56万(2005)でこの国第1位。スウェーデン王グスタブ・バーサは,ハンザ同盟勢力からの脱却をめざし,また当時フィンランド湾の商業活動を支配していた南岸のタリンに対抗する商業都市をその北岸にもつくることをめざして,1550年6月命令書を出し,入江の奥のバンター河口に町をつくらせた。これがヘルシンキの前身で,1600年代初頭には人口600,この国第3の都市へと成長していたが,40年クリスティーナ女王の命令により,岬で三方が海に面し外海に近くもっとよい港が得られる現在地への移転が決まった。1700年代中葉,ヘルシンキを守るため,現在ではスオメンリンナSuomenlinnaと呼ばれる城砦が沖の島に築かれ,今日まで当時の姿を伝えている。1805年ヘルシンキとスオメンリンナに合計約9000人が住んでいたが,そのうち兵士が3000人で,ヘルシンキは長い間軍港でもあった。09年ロシアがスウェーデンに代わってフィンランドを支配することになり,ロシア皇帝アレクサンドル1世は,1812年4月ヘルシンキをフィンランドの首都と定めた。それまでの首都トゥルクよりロシアに近い位置にあり,伝統に支配されず,政治色のない都市だったことが理由として挙げられる。
エーレンストロムJohan Albrekt Ehrenström(1762-1847)が責任者となり,ドイツ生れの建築家エンゲルCarl Ludwig Engel(1788-1840)が設計を担当し,新首都の都市計画が進められた。その最中の28年,トゥルクの大火で焼失した国立トゥルク大学がヘルシンキに移転してきた。セナーティントリ広場を中心に,エンゲルによる新古典主義の美しい建築物が次々と建てられた。おもなものは官庁街(1812-22),ヘルシンキ大学本館(1828-32),大学図書館(1836-45),大学病院(1826),大聖堂(1830-40),聖三位一体教会(1828)などである。ヘルシンキは〈バルト海の娘〉という別名をもつが,それはこれらの建物がかもし出す美しく清楚な感じからきている。首都になったことで,人口構造が変化し,それまでは商人が多かったが,徐々に役人やサービス業に従事する者が増えていった。産業革命のため,また内陸部の材木を積み出すようになったため,1870年代後半から市は急速に発展した。1965年人口は50万を突破したが,市街地だけの人口は1953年をピークに減少を始め,全体の人口も70年代後半から減り始めた。逆に隣接のベッドタウンの人口が増えている。ヘルシンキでも100年間に約30cmと土地が隆起しているが,港の状態は良好である。おもに輸入を受け持っていて,この国の全輸入額の半分以上を占めている。機械製造・化学・繊維・食品工業が盛んであるほか,文教都市としても重要で,全国の大学生のうち3分の2がここに集まっている。1952年には第15回オリンピックの開催地となった。市の北西の島セウラサーリSeurasaariには,フィンランド最大の野外歴史博物館がある。1909年に開かれたもので,学問的にも貴重な家屋,倉庫,船などが集められている。その中でいちばん古いものは1686年の木造の教会である。
執筆者:荻島 崇
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バルト海東部に位置するフィンランドの首都。1550年にスウェーデン王グスタフ1世によって建設され,1640年に再建された。1812年に,トゥルクに代わってフィンランド大公国の首都となった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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