翻訳|Helsinki
フィンランド南部,フィンランド湾に面した港湾都市で,同国の首都。文化・芸術の中心でもある。人口56万(2005)でこの国第1位。スウェーデン王グスタブ・バーサは,ハンザ同盟勢力からの脱却をめざし,また当時フィンランド湾の商業活動を支配していた南岸のタリンに対抗する商業都市をその北岸にもつくることをめざして,1550年6月命令書を出し,入江の奥のバンター河口に町をつくらせた。これがヘルシンキの前身で,1600年代初頭には人口600,この国第3の都市へと成長していたが,40年クリスティーナ女王の命令により,岬で三方が海に面し外海に近くもっとよい港が得られる現在地への移転が決まった。1700年代中葉,ヘルシンキを守るため,現在ではスオメンリンナSuomenlinnaと呼ばれる城砦が沖の島に築かれ,今日まで当時の姿を伝えている。1805年ヘルシンキとスオメンリンナに合計約9000人が住んでいたが,そのうち兵士が3000人で,ヘルシンキは長い間軍港でもあった。09年ロシアがスウェーデンに代わってフィンランドを支配することになり,ロシア皇帝アレクサンドル1世は,1812年4月ヘルシンキをフィンランドの首都と定めた。それまでの首都トゥルクよりロシアに近い位置にあり,伝統に支配されず,政治色のない都市だったことが理由として挙げられる。
エーレンストロムJohan Albrekt Ehrenström(1762-1847)が責任者となり,ドイツ生れの建築家エンゲルCarl Ludwig Engel(1788-1840)が設計を担当し,新首都の都市計画が進められた。その最中の28年,トゥルクの大火で焼失した国立トゥルク大学がヘルシンキに移転してきた。セナーティントリ広場を中心に,エンゲルによる新古典主義の美しい建築物が次々と建てられた。おもなものは官庁街(1812-22),ヘルシンキ大学本館(1828-32),大学図書館(1836-45),大学病院(1826),大聖堂(1830-40),聖三位一体教会(1828)などである。ヘルシンキは〈バルト海の娘〉という別名をもつが,それはこれらの建物がかもし出す美しく清楚な感じからきている。首都になったことで,人口構造が変化し,それまでは商人が多かったが,徐々に役人やサービス業に従事する者が増えていった。産業革命のため,また内陸部の材木を積み出すようになったため,1870年代後半から市は急速に発展した。1965年人口は50万を突破したが,市街地だけの人口は1953年をピークに減少を始め,全体の人口も70年代後半から減り始めた。逆に隣接のベッドタウンの人口が増えている。ヘルシンキでも100年間に約30cmと土地が隆起しているが,港の状態は良好である。おもに輸入を受け持っていて,この国の全輸入額の半分以上を占めている。機械製造・化学・繊維・食品工業が盛んであるほか,文教都市としても重要で,全国の大学生のうち3分の2がここに集まっている。1952年には第15回オリンピックの開催地となった。市の北西の島セウラサーリSeurasaariには,フィンランド最大の野外歴史博物館がある。1909年に開かれたもので,学問的にも貴重な家屋,倉庫,船などが集められている。その中でいちばん古いものは1686年の木造の教会である。
執筆者:荻島 崇
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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バルト海東部に位置するフィンランドの首都。1550年にスウェーデン王グスタフ1世によって建設され,1640年に再建された。1812年に,トゥルクに代わってフィンランド大公国の首都となった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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