ベルギーの解剖学者、外科医。ブリュッセルに医師の子として生まれ、近郊のルーバンでラテン語とギリシア語の教育を受けた。1533年パリ大学に行ってシルビウスJacobus Sylvius(1478―1555)に、またアンデルナハのギュンテルJohannes Günther(1505―1574)らに医学を学んで、とくにギュンテルには深く傾倒して、終生変わらない師弟愛で結ばれた。当時のパリ大学は、人体解剖が許可されている数少ない大学の一つではあったが、実際の解剖は身分の低い理髪医師任せで、教授は自らは執刀せずに傍らでガレノスらの古典の講釈に終始するという実態であった。
子供のころから自ら動物を解剖して内部構造を探求することに熱心だったベサリウスは、1536年郷里に帰り、貴重な人体解剖の機会を得、また非合法に入手した遺骨を研究するなどしてしだいに解剖学に熟達した。1537年、当時の医学の最高学府イタリアのパドバ大学に留学したが、その年の12月には早くも医学の学位を得た。そして23歳の若さで、解剖学と外科の教授に任用された。彼はただちに伝統的な理髪医師任せの解剖を改め、教授自らが執刀する画期的な解剖示説を開始した。1538年には早くも『解剖学六図』を出版している。パドバでは精力的に人体と動物の解剖学的研究を行い、1543年『人体の構造に関する七つの本』(『ファブリカ』)とその要約本である『梗概(こうがい)』(『エピトーメ』)を出版した。『ファブリカ』は画期的な解剖学書として医学界に衝撃を与えたが、それにとどまらず、くしくも同年に刊行されたコペルニクスの著作『天球の回転について』と並んで、科学革命ののろしとしての役割も果たすことになる。『ファブリカ』刊行後、ボローニャ、ピサなどで公開解剖を行って絶賛を博し、1544年からは神聖ローマ皇帝カール5世の侍医、ついでその子のスペイン王フェリペ2世の官医となって解剖学の研究から離れた。1564年、聖地エルサレムへの旅の途上で不慮の死を遂げた。
[澤野啓一]
ベルギーの解剖学者。パリ大学で医学を学んだが,戦禍のため中退し,ルーバン大学で勉学を続け,パドバ大学で医学博士の資格を得た。32歳で同大学の解剖学と外科の教授に抜擢(ばつてき)され,人体解剖や動物実験によって,それまで金科玉条とされたガレノスの学説を立て直し,近代的系統解剖学の体系を樹立し,ベネチアの有名な画家ティツィアーノの弟子カルカルJan Stephan van Calcar(1499ころ-1545以後)と知りあい,解剖図作成を依頼した。1543年《人体の構造De corporis humani fabrica libri septum》(略称《ファブリカ》)をバーゼルのオポリヌス書店から発行した。大型フォリオ判,本文600ページ,付図300以上ある。同年《エピトーメ》と略称する要約解剖書も出版した。約200におよぶガレノスの誤りを訂正し,その誤りはガレノスが人体解剖をしていなかったためと断言した。ベサリウスの革新的論述に対して,ガレノス支持の多かった当時の学者たちは猛烈に非難した。1544年パドバ大学の教職を門人コロンボに譲り,カール5世の侍医となり,王の退位後フェリペ2世の侍医となった。しかし学者や宗教家の憎悪がはげしくなったため,ついに侍医を辞してベネチアに隠居した。64年エルサレム巡礼の旅に出た帰路,不慮の海難にあい,病を得て死去した。《ファブリカ》はラテン語で書かれ,各国語に翻訳されたが,日本でも1976年に初版本が復刻出版されている。
執筆者:古川 明
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…ミケランジェロ,レオナルド・ダ・ビンチ,ラファエロらがそうである。このような芸術家たちよりややおくれて,ベルギー生れで解剖学に並はずれた関心と熱意をもってとりくんだA.ベサリウスが登場した。彼は経験にもとづいて《人体の構造》(《デ・ファブリカ》とも略される。…
…またフランスでもシャルル・エティエンヌCharles Estienne(1503‐64)が1530年ころから解剖図の出版の準備にとりかかった(実際の出版は1545年)。 このような時代的背景のなかに,近世解剖学の祖であるA.ベサリウスが出現する。パドバ大学教授のベサリウスはみずからの手で解剖しガレノス以来の誤り約200を正し,ティツィアーノの弟子である画家カルカールGiovanni da Carcarに描かせた詳細な図の入った《人体の構造》(1543)を出版する。…
…ことにレオナルドは人体の外貌だけでなく,内臓や諸器官を観察し,その機能も考えたが,彼が残した数百枚のデッサンはほんの一部しか後人に利用されなかった。解剖学の革新はパドバ大学のA.ベサリウスによってなされた。コペルニクスの遺著と同じ1543年に刊行された彼の《人体の構造》は700ページ余のフォリオ版で,ベネチア派の画家たちによる数多い精密な木版画が挿入されており,内容,挿図ともに以後の解剖書に大きな影響を与えた。…
…ベサリウスが著した実証的人体解剖書。中世の神学的教条主義から脱して,自然と人間を新しい目でみつめようとするルネサンス期の思潮のもとで生まれた。…
…M.ルターが宗教改革を開始したのは1517年であった。43年は,N.コペルニクスの《天球の回転について》とA.ベサリウスの《人体の構造》が発表された年である。それぞれ近代的な天文学,解剖学の出発点となったものであるが,数学に関係するのはとくに前者である。…
…最初の本格的な動物図譜はC.vonゲスナーの《動物誌》(1581‐87)であり,一角獣などの架空の生物もまだ混在したが,キリンやサイの絵がほぼ正しく描かれている。解剖学と生理学での実証の気運も高まって,ベサリウスの《人体の構造》(1543)とか,やや遅れてW.ハーベーの《血液循環の原理》(1628)が刊行された。顕微鏡による観察ではR.フックの《ミクログラフィア》(1665)があり,A.vanレーウェンフックの活動も17世紀後半であった。…
…ルネサンス時代には客観的な観察態度と正確な描写力に加えて,それを版画化して知識の確実な伝達が容易になる。ベネチア派の豊富な木版挿絵をもつA.ベサリウスの大型の〈解剖書〉(1543)はその好例である。美術家の解剖学的知識の必要は美術理論書(たとえばロマッツォGiovanni Paolo Lomazzo(1538‐1600)の美術書《Trattato dell’arte della pittura》1584など)でも認められた。…
※「ベサリウス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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