現在のモルドバ共和国の地域の旧称。ルーマニア語ではバサラビアBasarabia。ドニエストル川,プルート川と黒海に囲まれた地域で,南部は平坦地で,かつては内陸アジアに連なるステップ地帯に属し,北部には高山はないがカルパチ山脈の支脈が走り丘陵地帯が多い。現在ではロシア化が進んでいるが,20世紀前半までは多数を占めるルーマニア人のほかにさまざまなエスニック集団が共存し,民族学の博物館と呼ばれた。
古代にはスキタイ遊牧民族が支配し,のちダキアの勢力下に置かれたが,ローマ帝国のダキア支配が崩れる3世紀以降はまさしく諸民族の移動・通過地となり,ゴート族,アバール人,ブルガール族,スラブ人などが相次いで来住した。11世紀には南ロシアからドナウ川下流地域にかけてクマン人の国家が建設されたが,これも13世紀のモンゴルの西征によって崩壊した。その後1367年には新興のモルドバ公国がこの地方を領有し,モルドバ大貴族の所領が拡大していった。ベッサラビアの名称もワラキア公バサラブBasarabに由来するといわれている。しかしブジャクと呼ばれた南部地方にはクリム・ハーン国の勢力が強く,クリム・ハーン国がオスマン帝国に屈してからは,南東欧や中欧へのオスマン軍の遠征にはこの地方の〈タタール〉(クリム・ハーン国などにいたモンゴル系の人びと)もしばしば従軍した。
15世紀末~16世紀初めからこの地方もモルドバとともにオスマン帝国の宗主権下に置かれたが,18世紀ロシア帝国の南進に伴い露土戦争が勃発すると,そのたびに戦場と化し,1812年ブカレスト条約によってベッサラビアの大部分はロシア領に編入された。こうしてこの辺境の地域がいわゆる東方問題の焦点の一つとなったが,宗主権をもつにすぎないオスマン帝国がロシアに領土割譲したことについては西欧側から批判も出され,ソ連・ルーマニア間の領土問題としてしこりを残した。1829年アドリアノープル条約でロシアはドナウ川下流域の3県をも併合,これは56年パリ条約でルーマニアに返還されたが,78年ベルリン条約で再併合した。1917年のロシア革命では人民投票によってソビエトとの併合が決議されたが,翌年ルーマニアはソ連の抗議にもかかわらずイギリス,フランス,イタリア,日本の承認を得てこの地方を領有した。その後40年にソ連は最後通牒をつきつけ再獲得し,41年ドイツ軍のソ連侵攻後しばらくルーマニア領となったが,44年ソ連軍の反撃により再びソ連領となり,47年パリ条約でルーマニアもこれを認めた。
このような歴史的状況は当然この地域の政治・経済の自立的発展を妨げたが,また中欧やロシアあるいはバルカンから辺境へ逃れ来るさまざまなエスニック集団を加えて特殊な民族構成をもつ社会を形成した。モルドバ公国領時代以来,住民の大多数を占めたのはモルドバ人(ルーマニア人)で,1855年のロシア側文献によってもルーマニア人は総人口46万9783人の86%を占めている。スラブ人ではウクライナ人,ロシア人のほかに19世紀前半に多数移住したブルガリア人がおり,またアルメニア人,ギリシア人,タタール人,トルコ人(ガガウズ),ジプシー,さらに18世紀以降に植民したプロテスタント系ドイツ人や旧ポーランドから移住したユダヤ人がいる。主要貿易港であるアッケルマンとキリアにはアルメニア人,ギリシア人,ユダヤ人の商人が活躍していたが,とくに南部地方にはさまざまなエスニック集団がみられた。移住者の多くは,宗教的理由(ドイツ人,ユダヤ人,去勢派ロシア人などの場合),経済的理由(逃亡農民)および戦乱(ブルガリア人農民)などによって移住してきたが,彼らは商人,手工業者,農民として共住していた。20世紀における2度の大戦と近代化によりこの地方の民族的構成も大きく変化し,1940年の独ソ間の協定により大多数のドイツ人が帰国したのをはじめ,少数エスニック集団は著しく減少した。
→モルドバ
執筆者:萩原 直
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ヨーロッパ東部、ともに黒海に注ぐドニエストル川とプルート川に挟まれた歴史的地域。面積約4万5000平方キロメートル。ルーマニア語名バサラビアBasarabia。「ベッサラビア」は英語名。モルドバ共和国の大部分を占めるが、歴史的な係争地域で、住民の3分の2弱がルーマニア人(旧ソ連では独自の「モルダビア人」だとしていた)、残りはウクライナ人、ロシア人などである。中心都市キシニョフ。14世紀にルーマニア人が建国したモルダビア公国の一部となったが、16世紀にはモルダビアとともにオスマン・トルコの宗主権下に入った。トルコは1812年のブカレスト条約によってベッサラビアをロシアに割譲。1917年のロシア革命後、同地は混乱に陥ったが、18年4月に同地のルーマニア人の評議会(スファト)は、進攻してきたルーマニア軍を背景にルーマニアとの合併を決議した。ソ連はそれに強く抗議し、39年の独ソ不可侵条約でドイツの了解を得たうえで40年6月に最後通牒(つうちょう)を発し、ルーマニアから同地を奪還。第二次世界大戦時に枢軸側にたったルーマニアが同地を奪ったが、戦争末期にソ連が回復した。1960年代に入って、歴史論争の形でベッサラビアをめぐる両国の抗争が再燃した。
[木戸 蓊]
ドニエストル川,プルート川,ドナウ川,黒海に囲まれた地域。ドナウ河口に領土を広げたワラキア公バサラブ(在位1310頃~52)の名前に由来。14世紀後半以降モルドヴァ公国領。1812年ロシア‐トルコ戦争後のブカレスト条約でロシア領に編入され州となった。56年パリ条約で南部はモルドヴァに割譲されたが,78年ベルリン条約で再びロシア領となった。1918年ルーマニアとの合併が宣言されたがソ連は認めず,40年ソ連が併合。第二次世界大戦中一時ルーマニア領となったが,ソ連が再併合。南部はウクライナ領となり,残る地域はドニエストル左岸地域を加えモルダヴィア・ソヴィエト社会主義共和国となり,91年モルドヴァ共和国として独立。モルドヴァ人とロシア人あるいはトルコ系民族ガガウズ人の間で対立が表面化。
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…ドイツに信任のあついアントネスクが国家指導者となり,やがて日独伊三国同盟に加盟した。この間40年6月にソ連はルーマニアに最後通牒を送り,ベッサラビアと北ブコビナを領有,ブルガリアも南ドブロジャを領有,またドイツ,イタリアのウィーン裁定によってトランシルバニア北部がハンガリーに与えられた。第2次大戦が始まると,41年6月ルーマニアは対ソ戦に参加したが,国内では労働者や知識人による反戦運動が起き,44年8月ソ連軍がルーマニア領土への反攻を開始したのに呼応して,戦争からの離脱工作があわただしく行われた。…
※「ベッサラビア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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