ルーマニア史(読み)ルーマニアし

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ルーマニア史」の意味・わかりやすい解説

ルーマニア史
ルーマニアし

古代においてはダキアと呼ばれ,独立の王国が存在。トラヤヌス帝(在位 98~117)からアウレリアヌス帝(在位 270~275)にかけてローマの支配を受けた。この時期に入植したローマ人とダキアの先住民との混血からワラキア人(ブラフ人)が形成された。3~12世紀ゴート人,ゲピード人,スラブ人アバール人ブルガール人マジャール人ハンガリー人),ペチュネグ人,クマン人(→クマノイ族)らが侵入。このうち 7~9世紀にかけて支配したブルガール人がキリスト教ギリシア正教)をもたらし,後世に大きな影響を与えた。
カルパチア山地に避難して民族大移動期を乗り切ったワラキア人は,13~14世紀ドナウ川ドネストル川下流域に進出し,ワラキア公国モルドバ公国を形成。1330年ワラキア公バサラブはハンガリー王カーロイ1世を破り,独立を獲得,バサラブ朝を開いた。その後オスマン帝国の圧力が強まり,ミルチヤ老公はハンガリーと結んでこれに対抗しようとしたが,1417年オスマン帝国の宗主権承認を余儀なくされた。16世紀にミハイ勇敢公がオスマン帝国の浸透を阻止,神聖ローマ皇帝と結んでハンガリー,ポーランドと対抗,トランシルバニアモルドバをあわせて初めて統一大ルーマニアを実現した。ところがその後オスマン帝国は完全にワラキアを制圧,公位をギリシア系商人 (→ファナリオテス) に売り与えて支配した。モルドバでは 15世紀後半にシュテファン3世(大公)がオスマン帝国の進出に対抗したが,その没後オスマン帝国の勢力が強まり,ワラキアと同様の運命に陥った。
18世紀後半からロシアの進出が顕著となり,両公国はしばしばロシア軍に占領された。1812年ベッサラビアがロシアに併合され,1831~32年ロシアの影響下に両公国の基本法(→レグルマーン・オルガニク)を制定。1859年統一ルーマニア公国が成立し,1866年ドイツからカロル1世を迎え,1878年ベルリン条約で完全独立を達成。1881年王国宣言。第1次世界大戦まで自由党と保守党が交互に政権を担当した。バルカン戦争で南ドブルジャ,第1次世界大戦で協商側に加担してトランシルバニア,ベッサラビアを得,大ルーマニアを実現。戦後急進的な農地改革が実施され,自由党と農民党が交互に政権を担当した。しかししだいに権威主義体制化し,1938年国王カロル2世,1940年イオン・アントネスクの独裁体制が成立。第2次世界大戦に際しては枢軸側に加担,ソビエト連邦軍の接近とともに国王ミハイ1世クーデターを敢行し,連合国側に参戦。1945年国民民主戦線政府が成立し,1947年人民共和国宣言,翌 1948年労働者党(共産党)の事実上の一党独裁体制が確立した。ソ連圏に組み込まれ,スターリン主義体制のもとで強制的工業化政策を実施。しかし 1960年代初めからしだいに外交政策における自主路線が顕著となっていった。内政面ではニコラエ・チャウシェスク大統領の独裁体制が強化されたが,1989年に同政権が打倒され,イオン・イリエスクを指導者とする救国戦線が政権を掌握した。

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