ベネチア共和国(読み)べねちあきょうわこく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ベネチア共和国」の意味・わかりやすい解説

ベネチア共和国
べねちあきょうわこく

北イタリア、アドリア海岸の商港ベネチアVeneziaを中心として中世から18世紀末まで存続した都市国家。

 第4回十字軍(1202~04)は聖地への海上輸送をベネチアに依頼したが、約束の費用を調達しえず、一方、当時ビザンティン帝国では国富を吸収するベネチア人への反感が強まっていた。そこでベネチアは、1204年、この十字軍を勧誘してビザンティン帝国を征服させた。帝国領土の分割で得た広大な領土と従来の獲得地とから、ベネチアは東地中海に一大海上植民地帝国を建設した。その商業的・軍事的拠点は直接に支配し、残余部分は現地支配者と封主・封臣関係を結んで間接に支配した。支配機構が整備される一方で海上の脅威が増大すると、直接支配地が拡大した。領土の開発で砂糖、綿花などの特産物生産が軌道にのると、それは経済的にも重要となった。東方物産や植民地物産の輸出入でベネチア商業が発展すると、競争相手ジェノバとの敵対関係が激化し、1258~1380年にわたって断続的な戦闘が展開されたが、ベネチアは最終的に勝利を収めた。14世紀以後、重要商品の海上輸送は、国家規制の船団などにより定期化し、地中海はもとよりイギリス、フランドルに対してもなされた。

 このような海上発展から利益を得た有力者層が、ベネチア共和国の政権を獲得することになった。従来、ベネチアの最高機関は全人民集会であり、そこで選出されたドージェ(最高執政官)が強大な権限を有したが、12世紀、台頭していた有力者層の機関として大評議会が設置されると、この機関が権力を吸収していった。13世紀末から14世紀初め、大評議会は当時の新興勢力を包摂して基盤を拡大・強化し、権力の独占に成功したが、同時に会員資格を世襲化したので、閉鎖的な貴族身分が誕生した。以後、新たに富裕化した平民原則としてその会員にはなれず、権力への参加を拒否されたが、一定の条件を充足すれば、海上貿易参加権などの貴族の経済的・社会的特権の一部を与えられ、残余の平民とは異なる準貴族身分となった。共和国を構成する貴族、準貴族および平民の人口は、16世紀にはだいたい、5%、5%、90%の割合であった。大評議会会員は多数だったので、実際の政治はそのなかから選出される元老院、十人委員会などの機関が行った。これらを事実上支配した少数の有力貴族が権力の中核だったが、政治の安定がベネチアの特色だった。

 従来海上帝国の経営に努力を傾注したベネチアは、15世紀、方針を転換してイタリア本土における領域国家の建設にも精力を割いた。本土はすでに少数の領域国家による覇権争奪の時代となっていたが、有力諸国の脅威に対抗して内陸貿易路と食料・原料の基地とを確保する必要から、イタリア北部を征服しその経営に乗り出した。その急激な膨張がイタリア諸国のみならず西欧諸国をも警戒させ、各国は1508年にカンブレー同盟を結び、のちにベネチアを敗北させた。同盟諸国の内紛でベネチアは危機を脱したが、それ以上の膨張は不可能となった。一方東地中海では、15世紀後半以後、オスマン・トルコの海上進出によりベネチアは領土をしだいに喪失した。東インド航路の発見にもかかわらず、16世紀にはベネチアの東方貿易はまだ繁栄を維持したが、17世紀にオランダが上記の航路を支配するに及んで衰退し、以後ベネチアは局地的な貿易の中心地にすぎなくなった。だが、16世紀にベネチアの文化は最盛期を迎え、印刷業やパドバ大学の発展などにより、以後イタリアおよび西欧の文化を東地中海各地に伝えるうえで大きな役割を果たした。1797年のナポレオンの占領によって、共和国の歴史は終わりを告げた。

[斉藤寛海]

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