ボゴミル派(読み)ボゴミルは(英語表記)Bogomils

改訂新版 世界大百科事典 「ボゴミル派」の意味・わかりやすい解説

ボゴミル派 (ボゴミルは)
Bogomils

中世バルカン半島で勢力をふるったキリスト教異端パウロ派の影響のもとに,10世紀前半のブルガリア西部マケドニア地方の司祭ボゴミルBogomilが興したとされる。世界を善と悪の対立でとらえる二元論的異端で,教会制度や典礼はもとより,世俗の権威社会制度サタン(悪魔)の創始したものとして徹底的に否認したため,反体制運動の様相を呈し,支配者および教会の弾圧を招いた。ボゴミル派自体ははっきりした教会制度を持たず,厳格な禁欲主義を実践する〈完全者〉とそれ以外の信徒の別があったにすぎない。ボゴミル派はブルガリアで勢力を拡大すると,12世紀前半にはビザンティン帝国に現れ,その指導者が捕らえられ,処刑された。さらに13世紀には第2次ブルガリア帝国で繁栄を見たが,1211年のタルノボ主教会議で公式に異端として弾劾された。同じころセルビアとボスニアにも拡大し,ボスニアでは一時国教の地位を得た。なお,ボゴミル派は西ヨーロッパのカタリ派とも密接な関係を有した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ボゴミル派」の意味・わかりやすい解説

ボゴミル派
ぼごみるは
Bogomils

10世紀以後バルカン半島や小アジアに広まったキリスト教の二元論的異端で、トラキアのパウロ派を通じてマニ教の影響を受けた。この名は創始者ボゴミルBogomil(ギリシア語テオフィロス――神の友の意――のブルガリア語訳)にちなんだもの。彼はマケドニアのフィリッポポリス周辺で、俗世からの離脱、華美な教会儀式の拒否、また財産と権力の放棄こそ真にキリスト教的な生活であると説いて、貴族から農民層に至る広い支持者を得たが、1118年コンスタンティノープル周辺の指導者はビザンティン皇帝アレクシオス1世(在位1081~1118)によって火刑にされ、40年の教会会議では彼らの書物破棄が命じられた。とくにマヌエル1世(在位1143~80)の激しい弾圧を受けてからは西ヨーロッパにも伝道の方向を向けたといわれるが、ボゴミル派の分枝とされるカタリ派がはっきりその姿をみせるのも同じころである。1167年トゥールーズに近いカラマンでコンスタンティノープルからきた「異端の教皇」ニケタスがカタリ派の教会会議を司会し、同派の教会組織を強化したが、彼もボゴミル派の司祭であったらしい。このころすでに東方では穏健なブルガリア教会と過激なドゥラゴビツァ教会に分裂していて、西欧ではイタリアにそれが強く反映した。13世紀に活動の中心はボスニアに移ったが、1463年オスマン・トルコによるボスニア占領によってこの派の大部分はイスラム教に転向した。

[今野國雄]

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百科事典マイペディア 「ボゴミル派」の意味・わかりやすい解説

ボゴミル派【ボゴミルは】

中世ブルガリアに興ったキリスト教異端。マケドニアの司祭ボゴミルBogomil(10世紀前半に活動)が開いたとされ,あらゆる社会制度・教会・典礼を否定して,徹底した禁欲と善悪二元論を説く。1211年の主教会議で異端宣告。マニ教の流れを汲む7―10世紀のアルメニアの異端パウロ派との関係が想定され,さらにカタリ派はボゴミル派が西漸して生まれたとの説も有力である。

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世界大百科事典(旧版)内のボゴミル派の言及

【ボスニア・ヘルツェゴビナ】より

…このボスニアは東と西の分岐点に位置しており,東方正教会とローマ・カトリック双方の働きかけを受けた。しかし,マケドニアのボゴミルが開祖とされる中世の異端ボゴミル派がボスニアに浸透した。ボゴミル派はクリンの時代に〈ボスニア教会〉を組織して布教活動にあたった。…

※「ボゴミル派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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