広くは一定の目的や理想を達成するための心身の統御・鍛練を意味する用語である。したがって、学業の研鑽(けんさん)や精神的修養あるいは身体上の訓練などいずれも禁欲とみなすことができ、キニコス学派、ストア学派、新プラトン学派などの哲学諸派はいずれもこれを説くが、この語がとくに問題となるのは宗教の分野においてである。
宗教上の目的のために行われる禁欲には、(1)不浄な状態や悪霊の力を払い清めるため、(2)自力を補強し超能力を獲得するため、(3)聖なるものを歓待する犠牲的行為として、(4)罪を贖(あがな)い聖性と至福の境地に至る道程として、などの理由が数えられる。いずれにしても禁欲は、本能的欲求や世俗的欲望の否定によって初めて、宗教上の理想が実現されるという発想に基づいている。そのため、霊と肉ないし聖と俗の区別を強調する二元論的宗教に現れやすいが、いずれの宗教にも多かれ少なかれ禁欲的要素は認められる。
具体的な禁欲行為としては、たとえば沈黙、黙想、経典読誦(どくじゅ)、服従、忍辱(にんにく)などの精神的行為、独身生活、断食(だんじき)、沐浴(もくよく)、粗衣粗食、巡礼行脚(あんぎゃ)、睡眠短縮、鞭打(むちうち)、手枷足枷(てかせあしかせ)などの肉体的行為がある。これらの行為は修行、苦行などともよばれ、各宗教によってさまざまの方法がくふうされている。神道(しんとう)や儒教の精進潔斎(しょうじんけっさい)、バラモン苦行者の森林生活、古代ギリシア宗教にみられる密儀、乞食(こじき)生活、イスラム教神秘主義者の肉体虐使など、神観念や風土的条件と関連しながら各種の禁欲方式が成立した。
もろもろの欲望を切り捨て、人間の営みを可能な限り宗教的目的に必要な行為に限定しようとする禁欲の基本理念は、宗教生活を目的達成に向けて合理化し体系化する動力となり、ひいては歴史形成力として作用する。マックス・ウェーバーはその典型をキリスト教にみた。中世の修道院生活における「世俗外禁欲」が教会組織や荘園(しょうえん)経済に及ぼした影響、近代カルビニズムに代表される「世俗内禁欲」が職業倫理、資本主義精神の形成に与えた役割、これらは禁欲がその時代の社会的、文化的側面とのかかわりで果たした顕著な事例であった。一方、ヒンドゥー教、仏教など東洋の宗教では、禁欲はもっぱら神秘体験に至る階梯(かいてい)として位置づけられ、解脱(げだつ)のための意識集中の手段に用いられる。ヨーガ行法の「八支」のうち前半5段階の「外支」、その流れをくむ禅宗の「坐禅(ざぜん)」などがその例である。
[赤池憲昭]
心理・生理的な欲求を抑圧することによって聖なる体験を得ようとする倫理・宗教的な行動をいう。西欧語は鍛練を意味するギリシア語askēsisに由来する。一般に禁欲は,肉的な原理を否定して霊的な原理を追求する心身二元論的な生き方とされているが,究極的には身体における死と再生の体験を実現するための,心身の統合論的な生き方を含んでいる。禁欲の手段は多種多様であるが,そのうちもっとも重要視されたのが断食と性的隔離である。ヨーロッパ中世の修道院規則や中国・日本に発達した僧堂規定の記述から知られるように,食事などを組織的に制限することによって,エロス的感性を抑制しつつ昇華させる方法が,慎重かつ詳細に定められている。また禁欲は神秘的瞑想と合理的な生活行動を目ざす点において,たんなる苦行や肉体訓練とその質を異にしている。神秘的瞑想ということでいえば,心身における栄養状態の極度の低下こそが,神の恩寵や仏の来迎などの神秘を直覚するための重要な回路とされた。荒野をさまようイエスやシナイ山上のモーセ,インドのヨーガ行者や中国・日本の山中修行者たちなど,その例は多い。ついで合理的な生活行動との関係でいえば,M.ウェーバーの禁欲論が知られている。彼によればヨーロッパの近代資本主義は,世俗的な経済営利活動が禁欲倫理(プロテスタンティズム)の洗礼をうけてできあがったものだという。これは人間の経済活動を宗教的な禁欲原理との連関のもとに説明しようとした試みであるが,エンゲルスは同じこの禁欲原理を人間の政治行動に適応し,献身的な犠牲を要請する革命行動のうちに禁欲的精神の要因をさぐろうとした。アジアではインドのM.K.ガンディーが反英独立運動の過程で,ヒンドゥー教の原理であったブラフマチャリヤ(性的禁欲)と断食を採用し,その抵抗運動を成功にみちびいた。なお,英語ストイシズムstoicismに反映しているように,ギリシアのストア学派でも禁欲が重視され,泰然自若の心境に至るための要件とされた。
執筆者:山折 哲雄
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…このように,現世におけるすべての勤労が神の摂理と直接に結びつけられ,宗教的に意味づけられたことは,職業倫理のかたちで信徒の日常生活を,魂の救いに向けて照準し,道徳的にきびしく律するという結果を生んだ。中世では瞑想的な修道生活とほとんど等置されていた〈禁欲〉が,今や勤労生活の良心的な自己規制そのものへと拡大解釈され,M.ウェーバーが《プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神》などの著作で指摘するごとく,信仰に基礎づけられた一種の合理主義的エートスを発展させることとなる。再洗礼派をはじめとするプロテスタントの諸分派の中でも,このような禁欲主義は強調され,世俗労働の成果を通じてまことの信仰を確証しつつ,生活全体の〈聖化〉を目ざす努力がみられた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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