改訂新版 世界大百科事典 「ボナパルト家」の意味・わかりやすい解説
ボナパルト家 (ボナパルトけ)
フランス皇帝ナポレオンの出た家系。この家系は,16世紀にイタリアのフィレンツェからコルシカ島のアジャクシオの町に移住し,代々役人や聖職者を出していた。ナポレオンの父カルロCarlo Buonaparte(1746-85)はイタリアに出て法律を学び,レティチア・ラモリノと結婚,12人の子を持ち,うち8人が成長した。彼はパオリの率いるコルシカ独立運動に参加したが,1768年にコルシカがジェノバ領からフランス領になって以後はフランス勢力に接近,コルシカ地方三部会の貴族代表となった。カルロの次男は父の意向でフランス本国の兵学校に入学,軍人となった。これがナポレオン(1世)である。ナポレオンは,当初コルシカの民族運動に熱意を示していたが,フランス革命が勃発すると,イギリスと結んでも独立を果たそうとするパオリ派と対立,一家を挙げてフランスに亡命し,姓もイタリア・コルシカ風のBuonaparte(ブオナパルテ)からフランス風のBonaparteに改めた。彼は自身フランス皇帝となる(1804)とともに,皇族となった兄弟妹たちに征服した国々を統治させた。兄のジョゼフは初めナポリ,次いでスペインを与えられ,弟のルイとジェロームは,それぞれオランダとウェストファリアの国王となった。妹の一人カロリーヌは,ナポレオンの部将のミュラと結婚,ナポリ王妃の座についた。だが,ブリュメール18日のクーデタに大きな役割を果たしたすぐ下の弟のリュシアンだけは,ナポレオンと仲違いしたため,王冠を与えられなかった。また,オランダ国王ルイも,大陸封鎖の実施を拒むなど,帝国よりもオランダの利益を優先させたため,1810年退位させられた。同年ナポレオンは子どものできなかった前妃ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと離婚,ハプスブルク家のマリア・ルイザ(マリー・ルイーズ)と再婚し,翌11年男子相続者を得た。しかし,権勢を誇ったナポレオンの一族も,13年の帝国の崩壊とともに国外追放に処せられた。だが,このうちオランダ国王ルイの三男(母はナポレオンの前妃ジョゼフィーヌの子オルタンス・ド・ボアルネ)ルイ・ナポレオンは,ナポレオンの息子ライヒシュタット公が夭折し,兄たちも死亡すると,帝位の正統相続者を自任し,国内の帝政派の支持を得,52年ナポレオン3世として帝位につき,帝政の復活に成功した。この第二帝政はその後約20年間続いたが,普仏戦争の敗北(1870)によって崩壊,皇子と皇妃ウジェニー・ド・モンティーホはイギリスに亡命した。
執筆者:林田 伸一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報