基本情報
正式名称=マケドニア共和国Republika Makedonija/Republic of Macedonia
面積=2万5713km2
人口(2010)=205万人
首都=スコピエSkopje(日本との時差=-8時間)
主要言語=マケドニア語,アルバニア語,トルコ語など
通貨=デナルDenar
旧ユーゴスラビアを構成した一共和国で,1991年11月に独立を宣言した。バルカン半島の中南部に位置し,周囲を山に囲まれた盆地の内陸国である。
マケドニアは,歴史的地域名としては古代ギリシア語でMakedoniaと呼ばれ,現在のマケドニア共和国からギリシア,ブルガリアにまたがる広い地域の呼称で,古代マケドニア王国の版図をなした。ビザンティン帝国,ブルガリア帝国などによる支配を経て,15世紀にはオスマン帝国の配下に置かれたが,その崩壊後,セルビア,ギリシア,ブルガリアに分割された。セルビア領マケドニアはその後ユーゴスラビア王国に包括されたが,第2次大戦後にユーゴスラビア連邦の一構成共和国となった。
首都スコピエのほかに主要都市としてはテトボ,ビトラ,クマノボ,ゴスティバル,プリレプ,ストルミツァ,チトブ・ベレス,オフリト,コチャニ,シュティプがある。可耕地面積は約4分の1で,穀物のほかタバコ,綿花,ケシ,米(水田耕作),ヒマワリ,ビートが主要作物である。野菜の促成栽培,ブドウなどの果物も多く栽培され,とくに近年カバダルツィ,シュティプなどでブドウ酒の生産が盛んになっていることから,ブドウ園の増加が目だつ。牧畜では羊,牛,鶏が盛んに飼育されている。豊富な鉱物資源が民族資本で開発されるようになってから,工業の発達には目ざましいものがある。スコピエには年産100万tの設備をもつ鉄鋼プラントのほか,化学,バス,家具,ガラス,セメント,タバコなどの工場,テトボには繊維・電解工場,クマノボには金属加工・タバコ・製靴工場,チトブ・ベレスには繊維・家具・陶器工場,ビトラには繊維・冷蔵庫工場がある。
1945年5月マケドニア語(スラブ語派)のキリル文字アルファベットが,6月には正字法が発表され,53年マケドニア語研究所がつくられて,61年に3巻の《マケドニア語辞典》が完成した。19世紀すでにD.ミラディノフとK.ミラディノフの兄弟,G.プルリチェフ,20世紀に入ってもK.ラツィンらの詩人が輩出し民謡の採集も行われていたが,マケドニア人が自らの言語を確立してからの文学の隆盛には目をみはらせるものがある。詩人にコネスキ,S.ヤネフスキ,A.ショポフ,G.トドロフスキ,M.マテフスキ,R.パブロフスキ,V.ウロシェビッチら,短編作家にZ.チンゴ,D.ソレフ,P.M.アンドレエフスキ,長編作家にはヤネフスキ,S.ドラクル,B.パブロフスキらがいる。首都スコピエには第2次大戦前すでに大学があり,戦後はアカデミーが創設された(1967)。マケドニア教会も1967年総主教座に昇格している。演劇,バレエ,音楽,民俗舞踊なども各都市の劇場,文化会館で常時発表されているが,とくに〈オフリトの夏〉〈ストルガの詩の夕べ〉などの国際的なフェスティバルでは内外一流の芸術家に接することができる。なおスコピエには,トルコ語とアルバニア語のみの民族劇場もある。
マケドニアは考古学的にみてきわめて興味深く,ローマ時代のヘラクレヤ,ストービなど現在でも発掘中の遺跡が散在している。オフリトは中世のビザンティン美術を研究する者にとって一度は訪れたい所で,聖ナウムなど船によるオフリト湖畔の修道院巡りも,一般の観光客を引きつけてやまない。首都スコピエは1963年の大地震後,中心部を丹下健三の復旧計画に従って整備再建したため,今日では面目を一新した。精緻な木彫のイコノスタシス(聖障)で名高い聖スパス地下教会や,ステファン・ドゥシャン大帝の石橋や城跡などが今も残るトルコ時代の旧市街とともに,新しい観光名所となっている。
執筆者:田中 一生
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…正式名称=マケドニア共和国Republika Makedonija∥Republic of Macedonia面積=2万5713km2人口(1994)=193万7000人首都=スコピエSkopje(日本との時差=-8時間)主要言語=マケドニア語,アルバニア語,トルコ語など通貨=デナルDenar旧ユーゴスラビアを構成した一共和国で,1991年11月に独立を宣言した。バルカン半島の中南部に位置し,周囲を山に囲まれた盆地の内陸国である。…
…敗戦の結果,アテナイはデロス同盟を失い,国内的にも市民数の減少や田園の荒廃など未曾有の打撃を被るが,前4世紀に入ると急速な立直りを見せ,とりわけ前377年にはアテナイ第二海上同盟を結成して,再びエーゲ海に覇を唱えるにいたる。しかし前4世紀半ばになると,北方のマケドニアの勢力が伸びてギリシア本土をうかがい,前338年,カイロネイアの戦でテーバイと組んで敗れたのちは,アテナイもコリントス同盟の一員としてマケドニアの政治的・軍事的指導に服することとなった。ギリシア世界はその様相を大きく変えて,ヘレニズム時代へと移行する。…
…のちにこのバルカンという呼名が実はトルコ語の普通名詞で〈山〉を意味することが明らかになり,ツォイネの命名にはいくたの批判が加えられ,19世紀中葉にはバルカン半島を南東ヨーロッパ半島と命名すべきだと説くドイツ人地理学者も現れたが,19世紀末ころからしだいにバルカンという名称が市民権を得るにいたった。 ツォイネがこのように命名したとき,彼はアペニノ山脈がイタリア半島に対してもつ役割と類似の性格をバルカン山脈に認めたのであるが,そのために彼はほぼ現在のブルガリア南部,マケドニア,アルバニア,ギリシアをあわせてバルカン地域とみなした。その後この概念は拡大され,ヨーロッパ部分のトルコを含めて,北はドナウ川とサバ川までの地域をバルカンと呼ぶことが多くなった。…
…北部ギリシアの中心テッサロニキ市の西方約38kmに位置する町。マケドニア王国の首都の遺跡がある。この王国のアルケラオス王(在位,前413‐前399)が,それまでの首都アイガイから遷都したといわれ,ギリシア文化受容の中心となった。…
…ここでは後者の意味での〈ヘレニズム〉について述べる。 しかしこの時代概念としてのヘレニズムの枠組みは諸説一定せず,年代的にはアレクサンドロスの東征進発(前334),または大王の即位(前336)ないし没年(前323)に始まり,ローマによるプトレマイオス王国征服(前30)に至る3世紀間とするのが通説だが,マケドニア王国の勃興と同時代のポリス世界の変質に注目して,前360年以降をヘレニズム時代とする有力な見方(H.ベングトゾン)もある。また〈ヘレニズム世界〉といわれる場合の地域範囲としては,一般にギリシア本土,マケドニア以東アレクサンドロス帝国に包含された東方領域全体が対象となるが,一方ではギリシア文化の拡散普及に力点を置いて,カルタゴ,イタリアなど西地中海周辺地域をもこれに含める見解(U.ウィルケン)もある。…
※「マケドニア共和国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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