イスラエル東部の古代遺跡。死海西岸の孤立した台地(東側の高さ約390メートル)の上にあり、北、東、南側は絶壁に囲まれ、西側も急斜面をなす。紀元前2世紀後半にマカベア朝の王たちがここを要塞(ようさい)とした。前40年にはパルティア人の侵入の際、ヘロデ大王が自分の家族をここに避難させたが、その後、彼の王国の最南端防衛線上の拠点兼離宮の所在地として開発された。崖縁(がいえん)に三段の小宮殿のある北側を除いて、台地は城壁で囲われ、その内部には西側にある本宮殿をはじめとして兵舎、浴場、武器庫、食糧庫、大貯水槽、プールなどが備えられた。水は冬季の雨と涸(か)れ川の一時的流水から得られた。また、現存する最古のシナゴーグ(ユダヤ教会堂)とされる建造物も発見された。台地上の居住地に達するためには、東側の「蛇形通路」とよばれる険しい上り道を利用するほかなかったが、現在はそこに索道が設けられている。その後、ローマ軍がここに駐屯したが、紀元後66年に始まったユダヤ人の反乱では、約1000人の過激派(熱心党(ゼーロータイ)の一派)が奪取して立てこもった。7000人のローマ兵がフラウィウス・シルワの指揮下にこれを包囲し、73年5月陥落させた。その悲劇的状況は、発掘調査とヨセフスの『ユダヤ戦記』によって知られる。包囲軍が台地の麓(ふもと)に設置した八つの陣営、囲壁、西側侵入路の遺跡がみられるほか、大破された台地上の遺構からは、家具、古銭、食物、布片、巻物、碑文付き土器片などが出土した。
[小川英雄]
『Y・ヤディン著、田丸徳善訳『マサダ』(1972・山本書店)』
死海西岸のユダの荒野のほぼ中央に位置するひし形の丘で,死海から比高約400m。南北約600m,東西は中央部で約300m。前37-前31年にヘロデ大王が要塞宮殿を築いたことで知られる。ヘロデの死後ローマ軍が駐留していたが,第1次ユダヤ戦争のとき,ユダヤ反乱軍が奪取してここに籠城し,73年ローマ軍の総攻撃を前に全員960名が自害して果てたイスラエル国最大の史跡。1963-65年の発掘で,西の宮殿と北のけわしい崖を削って造られた三段テラス式懸崖宮殿,1000名以上の籠城軍の生活を支えた容積4000m3の大貯水槽と巨大な穀物倉庫,およびローマ式大浴場跡などが明らかにされた。ふもとの周囲にはローマ軍の築いた方形の陣地跡が残る。
執筆者:関谷 定夫
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