ハンガリーの政治家。土地なし小貴族の出。はじめ弁護士となり,1824-32年に県の役人として働くが,32年末から36年まで身分制議会の議員となる。32-36年に《国会通信》,36-37年に《地方自治体通信》を発行して,民族主義の見地から社会改革を説く。このため37-40年に投獄。恩赦ののち41年から《ペシュト新聞》を発刊(-1844),封建的特権の廃止,農奴解放,市民的自由,ハプスブルク帝国内でのハンガリーの独立性強化を主張。この見解は穏健改革派のセーチェニから批判されたが,しだいに普及した。47年の最後の身分制議会でも議員となり,反政府派の指導者として台頭。48年のパリ二月革命の報を聞いて,3月3日にハプスブルク帝国の改革を求める演説を議会で行い,その後ペテーフィらの急進的知識人の運動と合流して,ブダペストの三月革命を指導した(48年革命)。ブルジョア的変革を盛り込んだ〈三月法令〉の作成に寄与。バッチャーニュの指導するハンガリー最初の責任内閣の蔵相。ついでオーストリアの介入に対抗して9月に国防委員会議長に就任。革命の急進化の抑制を望む貴族層と革命の促進をめざす市民層・知識人の間に立って苦心するが,しだいに後者に傾斜した。49年4月14日デブレツェンで出た《独立宣言》の起草を指導し,同日臨時国家元首,執政に選ばれ,独立戦争を指揮した。しかしロシア軍の干渉により独立戦争に敗れると,8月11日ゲルゲイGörgey Artúr(1818-1916)に権力を奪われ亡命。51年までトルコに住み,51-52年にアメリカ合衆国を訪問した後,ロンドンに定住。各国の亡命者,とくにG.マッツィーニと親交を結んだ。50年代にナポレオン3世の援助をえて国の独立を回復しようとして,マルクスの批判を受ける。61年にイタリアへ移り,62年ハンガリーと隣接諸民族の共和制によるドナウ連邦計画を提議したことでも知られる。65年から死まではトリノに暮らした。
執筆者:南塚 信吾
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