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マドリード条約 マドリードじょうやくTreaty of Madrid

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

マドリード条約
マドリードじょうやく
Treaty of Madrid

1526年1月 14日,イタリア戦争中に神聖ローマ皇帝カルル5世とフランス王フランソア1世との間に締結された条約。 16世紀初期に神聖ローマ皇帝位を保有するハプスブルク家とフランスが対立し,イタリアが両国対決の舞台となったが,フランス側は 25年2月パビアで大敗し,フランソア1世が捕虜となった。この結果カルルの居所マドリードで条約が締結され,フランソア1世はブルゴーニュ,ミラノ,ナポリ,フランドルアルトアに対する権利を放棄し,オーストリア王女を妃に迎えることを約束したが,釈放されて帰国するとただちに条約不履行の意思を明らかにし,イングランド,ローマ教皇,イタリア諸国とコニャック同盟を結成して戦争を継続した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

マドリード条約
まどりーどじょうやく

ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール5世(同時にスペイン国王カルロス1世)とバロア家のフランス国王フランソア1世との間に、1526年1月マドリードで結ばれた講和条約。両家はイタリアにおける覇権をめぐって、15世紀末以来ヨーロッパ各地で闘争を繰り返していたが(イタリア戦争)、1521年から両君主の戦いが開始された。25年2月24日の北イタリアにおけるパビーアの決戦で、フランソア1世はカール5世のスペイン・ドイツ傭兵(ようへい)軍に敗れ、捕虜となった。この条約によってフランソア1世は釈放されたが、その代償として、ミラノ、ジェノバ、ナポリなどイタリアに対する要求の放棄とブルゴーニュ公国の引き渡し、アルトアとフランドルに対する封建的支配権の放棄を約束させられた。[岡部健彦]

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世界大百科事典内のマドリード条約の言及

【モロッコ】より

…それに対してムハンマド4世以下3代のスルタンのもとで行政・軍制の改革,産業開発などの近代化政策が実施されたが,それが財政危機と内乱を誘発し,かえって国力を弱めた。フランスほかの列強は互いに牽制しあったが,マドリード条約(1883)による上記3国の妥協,タンジール事件(1905)によるドイツの介入(モロッコ事件),アルヘシラス会議(1906)を経て,モロッコは,経済的には列強への門戸開放,政治的にはフランスとスペインへの従属を余儀なくされた。1912年のフェス条約によってモロッコはフランスの保護領になった。…

【モロッコ事件】より

…20世紀初頭,モロッコ支配をめぐるヨーロッパ列強の帝国主義的対立が招いた紛争。モロッコはアフリカ大陸の地中海側の戦略的要衝地で,鉱物資源が豊富であったことから,19世紀を通してイギリス,フランス,スペインが進出し競合対立したが,1880年マドリード条約で権益の均衡が得られた。99年ファショダ事件後,イギリス,フランスの相互譲歩によりモロッコはフランスの勢力範囲とされ,1901年フランス・イタリア協定でもこれを確認した。…

※「マドリード条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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