ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マドリード条約」の意味・わかりやすい解説
マドリード条約
マドリードじょうやく
Treaty of Madrid
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イタリア戦争中の1526年,神聖ローマ皇帝カール5世とフランス王フランソワ1世の間に結ばれた条約。フランソワ1世はパヴィーアの戦いで捕虜となり,カール5世のいるマドリードに送られ条約を受諾した。フランス王はこれにより,ブルゴーニュ,ミラノ,ナポリ,フランデレン,アルトワに対する権利を放棄した。しかし王は帰国後,条約を履行せず戦争が続いた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール5世(同時にスペイン国王カルロス1世)とバロア家のフランス国王フランソア1世との間に、1526年1月マドリードで結ばれた講和条約。両家はイタリアにおける覇権をめぐって、15世紀末以来ヨーロッパ各地で闘争を繰り返していたが(イタリア戦争)、1521年から両君主の戦いが開始された。25年2月24日の北イタリアにおけるパビーアの決戦で、フランソア1世はカール5世のスペイン・ドイツ傭兵(ようへい)軍に敗れ、捕虜となった。この条約によってフランソア1世は釈放されたが、その代償として、ミラノ、ジェノバ、ナポリなどイタリアに対する要求の放棄とブルゴーニュ公国の引き渡し、アルトアとフランドルに対する封建的支配権の放棄を約束させられた。
[岡部健彦]
…それに対してムハンマド4世以下3代のスルタンのもとで行政・軍制の改革,産業開発などの近代化政策が実施されたが,それが財政危機と内乱を誘発し,かえって国力を弱めた。フランスほかの列強は互いに牽制しあったが,マドリード条約(1883)による上記3国の妥協,タンジール事件(1905)によるドイツの介入(モロッコ事件),アルヘシラス会議(1906)を経て,モロッコは,経済的には列強への門戸開放,政治的にはフランスとスペインへの従属を余儀なくされた。1912年のフェス条約によってモロッコはフランスの保護領になった。…
…20世紀初頭,モロッコ支配をめぐるヨーロッパ列強の帝国主義的対立が招いた紛争。モロッコはアフリカ大陸の地中海側の戦略的要衝地で,鉱物資源が豊富であったことから,19世紀を通してイギリス,フランス,スペインが進出し競合対立したが,1880年マドリード条約で権益の均衡が得られた。99年ファショダ事件後,イギリス,フランスの相互譲歩によりモロッコはフランスの勢力範囲とされ,1901年フランス・イタリア協定でもこれを確認した。…
※「マドリード条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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