改訂新版 世界大百科事典 「マヤコーフスキー」の意味・わかりやすい解説
マヤコーフスキー
Vladimir Vladimirovich Mayakovskii
生没年:1893-1930
ロシア・ソ連邦の詩人。グルジアの寒村に生まれ,1905年のロシア革命の余波を受け,少年時代から政治活動に参加し,15歳のときにロシア社会民主労働党に入党した。3度にわたる逮捕と半年をこえる独房での獄中生活を体験したのち,10年1月,釈放と同時に政治活動をやめて,〈芸術の革命家〉たらんと決意した。
11年マヤコーフスキーはモスクワ絵画・彫刻・建築学校に入学し,本格的な絵画の勉強を始めたが,詩と絵画を中心とするアバンギャルド芸術の運動を創始,未来派の文集《社会の趣味への平手打ち》(1912)を出し,詩を発表しはじめた。悲劇《ウラジーミル・マヤコーフスキー》(1913)を書いて詩人としての地位を確立したのは18歳のときで,《ズボンをはいた雲》(1915),《戦争と世界》(1917)などの長詩を書きつつ,ロシア未来派の芸術運動の旗手として活躍した。17年10月のロシア革命を〈わたしの革命〉として受け入れたこの詩人は,革命直後からきわ立った活動を開始し,美術,演劇を含めたアバンギャルド運動の中心人物となった。《ミステリヤ・ブッフ》(1918)や世界革命に対する強烈なビジョンを打ち出した叙事詩《150000000》(1920)などはこの時期の記念碑的な作品であった。しかしマヤコーフスキーの革命への熱中は続かず,やがて革命が一つの形式として完成されていくうちに,たび重なる恋愛の挫折をともないつつ破滅の道をたどっていった。革命と愛の裏切りを独創的な技法と斬新なイメージを駆使して描いた長編抒情詩《これについて》(1923)やレーニンの死を悼む《ウラジーミル・イリイチ・レーニン》(1924),十月革命を賛美した《すばらしい》(1927)などの叙事詩,官僚主義に対する風刺にみちた戯曲《南京虫》(1929)や《風呂》(1930)などを書いたあと,スターリン主義の発生する政治過程での軋轢(あつれき)と不幸な恋愛に悩みつつ自殺した。しかし大胆な詩的実験と数多くの恋愛詩や革命詩は,20世紀のロシア詩に決定的な影響を残している。
執筆者:水野 忠夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報