メイエルホリド(英語表記)Vsevolod Emil'evich Meierkhol'd

デジタル大辞泉 「メイエルホリド」の意味・読み・例文・類語

メイエルホリド(Vsevolod Emil'evich Meyerkhol'd)

[1874~1940]ソ連の演出家。初め俳優としてモスクワ芸術座に参加。十月革命後、メイエルホリド劇場を創立し、ビオメハニカの提唱、大胆な前衛的演出で反響を呼んだ。スターリン時代に弾圧を受け、銃殺された。

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精選版 日本国語大辞典 「メイエルホリド」の意味・読み・例文・類語

メイエルホリド

  1. ( Vsjevolod Emil'jevič Mjejjerhol'd フセボロド=エミリエビチ━ ) ソ連の俳優、演出家。大胆な舞台構成やビオメハニカの提唱など、世界の演劇界に多大の影響を与えた。スターリンの粛清により処刑された。(一八七四‐一九四〇

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改訂新版 世界大百科事典 「メイエルホリド」の意味・わかりやすい解説

メイエルホリド
Vsevolod Emil'evich Meierkhol'd
生没年:1874-1940

ソ連邦の俳優,演出家。1896年モスクワフィルハーモニー演劇学校に入学。V.I.ネミロビチ・ダンチェンコの指導を受ける。98年モスクワ芸術座に入り,スタニスラフスキー愛弟子となる。1902年退団,地方で劇団を結成し演出も始める。シンボリズム演劇の試みを認められ,06年ペテルブルグのコミサルジェフスカヤ劇団に招かれる。08年同市の帝室劇場演出家となる。音楽,美術を重視したモリエールの《ドン・ジュアン》(1910),レールモントフの《仮面舞踏会》(1917)などを上演。コメディア・デラルテ,能,歌舞伎を演劇の原点とする演劇論を展開した。十月革命の翌18年共産党に入党,〈演劇の十月〉を旗印に革命にこたえる民衆劇を目指し,マヤコーフスキーの《ミステリア・ブッフ》(1918)や構成主義的なクロムランクの《堂々たるコキュ》(1922)などを,サーカス見世物小屋手法をとりいれて上演した。俳優訓練法ビオメハニカを考案し,22年モスクワにメイエルホリド劇場を創設,マルティネの《たちあがる大地》(1923),オストロフスキーの《森林》(1924),エルドマンの《委任状》(1925),ゴーゴリの《検察官》(1926)などで賛否の激論をよぶ。マヤコーフスキーの《南京虫》(1929),ビジネフスキーの《決戦》(1931)などを経てデュマの《椿姫》(1934)を上演するが,時代は社会主義リアリズム一辺倒となり,彼の演劇的演劇の探求は敵視され始める。36年〈メイエルホリド流に反対するメイエルホリド〉という講演で自己弁護もするが,38年劇団を閉鎖され,39年逮捕,40年粛清へと続く。55年名誉を回復された。弟子にエイゼンシテインらがいる。
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百科事典マイペディア 「メイエルホリド」の意味・わかりやすい解説

メイエルホリド

ロシアの演出家。1898年モスクワ芸術座の創設に俳優として参加したが,不満を感じて退座。各地で実験演劇を試みて演出家として注目された。十月革命勃発(ぼっぱつ)後〈演劇の十月〉のスローガンを唱えて革命演劇の先頭に立ち,マヤコーフスキーから古典にまで及ぶ斬新な民衆劇を目指した。〈ビオメハニカ〉という俳優訓練法を考案。1938年政府により劇場封鎖。スターリン時代の大粛清の犠牲となったが,1955年名誉を回復。弟子にエイゼンシテインらがいる。
→関連項目ショスタコービチスタニスラフスキーポクロフスキーリュビーモフルリエ

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「メイエルホリド」の意味・わかりやすい解説

メイエルホリド
めいえるほりど
Всеволод Емильевич Мейерхольд/Vsevolod Emil'evich Meyerhol'd
(1874―1940)

ロシアの演出家。ペンザのドイツ系ユダヤ人の実業家の家に生まれる。モスクワ大学法学部を中退、1896年モスクワ音楽愛好(フィルハーモニー)協会の音楽演劇学校に入る。98年にモスクワ芸術座の創立に俳優として参加し、『かもめ』『三人姉妹』『十二夜』などに出演したが、同座の写実主義・自然主義的傾向に飽き足らず、退団。1902年ヘルソンで地方巡業劇団を創立し、演出家、俳優としてさまざまな実験を行った。06年にはペテルブルグのコミサルジェフスカヤ劇場の主任演出家になり、08年からアレクサンドリンスキー劇場やマリンスキー劇場で活躍。『雷雨』『仮面舞踏会』などを演出しながら、マイニンゲン公劇団やコメディア・デラルテなどの影響のもとに様式演劇を追求し、ブロークの『見世物小屋』などで神秘的、象徴主義的演劇の実験を行った。十月革命(1917)を熱狂的に受け入れ、「演劇の十月」のスローガンのもとに革新的演劇を目ざし、演劇界の指導的地位についた。1920年にはモスクワにメイエルホリド劇場を創設、アジ・プロ劇の手法やサーカス芸を取り入れた斬新(ざんしん)な演出で古典劇の再評価上演をも行うとともに、独創的な肉体訓練「ビオメハニカ」を実践して、世界の前衛的な芸術運動に多大の影響を与えた。スターリン時代に形式主義の烙印(らくいん)を押され、38年劇場閉鎖、翌年逮捕、40年に処刑されたが、55年に名誉回復された。『ミステリア・ブッフ』『南京虫(なんきんむし)』『森林』『委任状』『検察官』『椿姫(つばきひめ)』などの名演出がある。

[中本信幸]

『佐藤恭子著『メイエルホリド』(1976・早川書房)』『エドワード・ブローン著、浦雅春訳『メイエルホリドの全体像』(1982・晶文社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「メイエルホリド」の意味・わかりやすい解説

メイエルホリド
Meierkhol'd, Vsevolod Emil'evich

[生]1874.2.9. ペンザ
[没]1940.2.2. モスクワ
ソ連の俳優,演出家。俳優としてモスクワ芸術座の創立に参加したが,スタニスラフスキーの写実主義にあきたらず退座 (1902) 。女優 V.コミサルジェフスカヤらと組んで演劇の様式性と多様性の舞台的表現に努めた。革命後はメイエルホリド劇場の主宰者となり (20~38) ,俳優の肉体の律動性を強調するビオ・メハニカ (生物力学的演技法) の実践と構成舞台によってソ連演劇に大きな影響を与えたが,形式主義的偏向を非難されて失脚,処刑された。スターリンの死後その名誉が回復された。代表的演出は V.マヤコフスキーの『ミステリヤ・ブッフ』 (18) ,『検察官』 (26) ,『椿姫』 (34) など。主著『演劇の再建』 Rekonstruktsiya teatra (30) 。

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世界大百科事典(旧版)内のメイエルホリドの言及

【演出】より

…ブレヒトは舞台に真実らしい幻想をつくりだすことを拒否し,観客を劇の世界に同化させないよう,その意識をたえず現実に引き戻す工夫をした。ソ連では,モスクワ芸術座の写実主義的傾向にあきたらず,独創的な肉体訓練を俳優に実践させ,世界の前衛的な芸術運動に多大な影響を与えたV.E.メイエルホリドが,反リアリズム,抽象美の舞台をつくりあげた。フランスではJ.コポーが,ビュー・コロンビエ座を創設(1913),裸の舞台で,戯曲を尊重し,俳優に自由な演技を求めた。…

【コミサルジェフスカヤ】より

…巡業で金を工面し,04年にコミサルジェフスカヤ劇場を創設。官憲の監視下にあるゴーリキーの《別荘人種》(1904),《太陽の子どもたち》(1905)を上演・主演したり,新進気鋭のメイエルホリドを招き,象徴主義演劇《ヘッダ・ガブラー》《修道女ベアトリーチェ》(1906)その他に主演もするが,彼の極端な反写実演劇に同調できず手を切る。以後アメリカ公演や地方巡業を続け,時代にこたえ,魂に訴える演劇づくりを模索したが,道半ばにして巡業地タシケントで天然痘のため死去した。…

【ビオメハニカ】より

…ソ連邦のメイエルホリドが提唱し,弟子たちにやらせた俳優の訓練法。初期のスタニスラフスキー・システムが俳優演技の基礎を内面体験におき,ひたすら〈そのつもりになる〉ことを主張したのに反発して,1917年の十月革命後提唱された。…

※「メイエルホリド」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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