イギリスの大手通信機器メーカー。前身は同国最大の総合電機メーカーであったゼネラル・エレクトリックGeneral Electric Co.(GEC)。1990年代なかば以降、事業の重点をIT(情報技術)と通信に置いたのに伴い、1999年に社名をマルコーニに改称した。同社の歴史はイギリスの電気・電子産業の歴史そのものでもある。なお、アメリカのGE(ゼネラル・エレクトリック)とGECは無関係である。
[安部悦生]
1880年代にロンドンで電気製品の卸商をしていたドイツ移民のグスタフ・ビンスワンガーGustav Binswanger(1855―1910。後にByngと改姓)は、同じドイツからの移民であるヒューゴ・ハーストHugo Hirst(1863―1943。後に貴族となる)とともに、1886年ゼネラル・エレクトリック機器General Electric Apparatus Co.を設立した。1888年同社はマンチェスターに工場をつくり、電話機やスイッチなど電気製品の製造を開始、1889年には非公開株式会社となり、社名をゼネラル・エレクトリック・カンパニーに改称した。1893年からは当時の重要な電気製品であった電球の製造を開始し、電気産業に足場を固めていった。
1900年に公開株式会社となり発電機の製造を開始。1900年代は電気を使用する工場の数が倍増し、GECも急成長を遂げた。また海外にも進出し、ヨーロッパはもとより、日本、オーストラリア、インド、南アフリカ、ラテンアメリカなどで事業展開を進めた。GECの生みの親といわれるハーストは1906年にマネージング・ディレクター(社長相当職)になり、1910年に会長就任後、1943年まで37年間という長期にわたり要職にあった。
第一次世界大戦期、GECは軍からラジオや信号機などの製造発注を受けて規模が拡大し、従業員は1万5000人を超えるまでになった。大戦終結後の1919年にはイギリス初の本格的な工業研究試験所をウェンブリーに建設。1920年代はイギリスの電化が進展し、高圧送電線網National Gridも完成した。この電化とラジオ、電話の急速な普及とがGECの発展の基礎となった。イギリスでは第一次世界大戦前からアメリカ系の電気メーカーが進出していたが、GECのほか、アライド・エレクトリカル・インダストリーズAllied Electrical Industries(AEI)、イングリッシュ・エレクトリックEnglish Electric(EE)などのイギリス系企業が戦間期には活躍していた。
[安部悦生]
しかし、第二次世界大戦後はGECの好調にも陰りがみえ始め、規模の小さな同業のラジオ・アンド・アライド・インダストリーズRadio and Allied Industries(RAI)と1961年に合併することになる(形はGECによるRAIの吸収)。RAIのマネージング・ディレクターであったアーノルド・ウェインストックLord Arnold Weinstock(1924―2002)は、1963年にGECのマネージング・ディレクターに就任すると、GECの活性化に着手した。
彼は他社の買収に積極的に打って出て、1967年GECよりもはるかに規模が大きかったAEI社を合併し、翌年にはEEを吸収した。AEIはブリティッシュ・トムソン・ヒューストンBritish Thomson Houston(BTH)、エジソン・スワンEdison Swan、メトロポリタン・ビッカーズMetropolitan-Vickersなどの有力製造子会社を擁し、EE社はマルコーニ、エリオット・ブラザーズElliot Brothersなどの著名な子会社を有していた。とくに今日のルーツとされるマルコーニ社は、無線通信の創始者で知られるイタリア人のグリエルモ・マルコーニによって設立されたWireless, Telegraph and Signal Co.(1897年創業)を起源とし、1946年にEE社に買収され、子会社となっていた。
ウェインストックの下でGECは好業績をあげ、1980年代には15億ポンドの現金資産をもつ優良企業となった。1989年ドイツのジーメンスと共同で軍需関連メーカーのプレッシーPlesseyを買収、また同年フランスの通信機器大手CGE(現、アルカテルAlcatel)と共同で発電・送電など重電子会社のGECアルストムGEC Alsthomを設立した。ハーストと同様にGECの発展に大きな功績を残したウェインストックは1996年に引退して名誉会長となった。1992年時点で、GECの売上げは94億ポンド、利益は8億ポンドに上り、従業員数10万人を超えるイギリス最大の総合電機メーカーであった(イギリス国内だけで約7万5000人)。
[安部悦生]
1990年代後半の情報通信技術の進展はGECにも大きな変化をもたらした。これまで電機、重電、防衛電子(軍事エレクトロニクス)を柱とした巨大複合企業であったGECは、1990年代なかば以降、重電部門の分離を皮切りに、半導体製造のGECプレッシー・セミコンダクターズGEC Plessey Semiconductorsなど周辺事業を売却し、売上げのごく一部に過ぎなかった通信機器事業に集中する事業再編に着手した。
1999年には軍事関連事業のマルコーニ・エレクトロニック・システムズMarconi Electronic Systemsをイギリスの防衛大手ブリティッシュ・エアロスペースBritish Aerospace(現、BAEシステムズ)に売却。事業の再構築に伴い同年11月社名をマルコーニに改称した。同社は軍事関連の売却で得た資金を元手に欧米の通信機器メーカーを相次いで買収し、総合電機からIT企業への急速な転身に成功した。ところが、2000年以後のITバブルの崩壊に続く通信不況、アメリカ同時多発テロという環境の激変を背景に、通信企業への投資抑制の影響を受け、一転して株価低迷に陥り業績が悪化。事業売却と大規模な人員削減を推し進め、2002年8月には債務の証券化を柱とする再建案を発表している。2003年に社名をMarconi plcからMarconi Corporation plcに変更。2005年4月にイギリスの大手通信企業であるBTグループの設備更新事業の契約獲得に失敗し、株価が大幅に下落した。そして翌2006年に通信ネットワーク機器事業と社名を12億ポンドでスウェーデンの通信機器大手エリクソンに売却。翌2006年残された他の事業部門は社名をティーレントtelent plcとし、イギリスとドイツでネットワーク機器サービス事業に専念した。
[安部悦生]
『レスリー・ハンナ著、湯沢威・後藤伸訳『大企業経済の興隆』(1987・東洋経済新報社)』▽『安部悦生ほか著『イギリス企業経営の歴史的展開』(1997・勁草書房)』▽『David J. Jeremy ed.Dictionary of Business Biography ; a biographical dictionary of business leaders active in Britain in the period 1860-1980(1984, Butterworths, London)』▽『Stephen ArisArnold Weinstock and the making of GEC(1998, Aurum Press, London)』▽『Gretchen Antelman, Thomas Derdak ed.International Directory of Company Histories Vol. 1-50(St. James Press, Chicago)』
イタリアの無線通信発明家、企業家。ボローニャの富裕な実業家を父として生まれ、少年時代は正規の学校教育を受けず家庭教師に学んだ。電気に興味をもっていることに気づいた母はリボルノ工科大学の教授を雇って家で教えさせ、彼は同大学でいくつかの講義を聞いた。1894年H・R・ヘルツが没し、彼の業績の記事を電気雑誌で読むうちに、ヘルツ波の応用を考え付き、父の住宅で無線電信の実験を開始した。まず、空気中でなくワセリンの中で火花放電させるリーギAugust Righi(1850―1921)の強力型発振器を採用して通信距離を延ばし、次に、1対の放電用金属球の一方を鉛直に高く張った針金つまりアンテナにつなぎ、他方を地面にアースする方法をとった。アンテナの上端にはアンテナの回路の電気容量を増すためのくふうをした。受信器のほうは感度を増すためにコヒーラー(検波器の一種)を改良し、これに鋭敏な電信用リレー(継電器)をつないでモールス印字器を作動させた。このようにそれまでのさまざまな発明を巧みに結合し、それを完成させたのは1895年末であった。同じころロシアのポポフも別に無線電信機を発明した。
1896年母とともにイギリスに渡って無線電信に関する特許を取得、ロンドンの中央郵便局で最初の公開実験を行って成功した。1897年ロンドンにマルコーニ無線電信会社を創立、ドーバー海峡でイギリス―フランス間の通信を実現した。大西洋を隔てた送受信は1901年12月12日コーンウォール州ポルデュとニューファンドランドのセント・ジョンズとの間で歴史的な成功を収めた。初め無線通信は海底電信事業から激しい抵抗を受けたが、対船舶または船舶対船舶の通信で画期的な効果をあげ、無線電信の独壇場となった。
単一アンテナによる同調式および多重電信同調の方式(1901)、磁気波器(1902)、水平指向性アンテナ(1905)などを発明し、その後は彼の会社にJ・A・フレミングら多くの科学者を顧問に迎え、通信距離の延長、同調の改善、空電、混信の除去など無線通信の技術的向上に努めた。1909年K・F・ブラウンとともに無線通信の発展に対する貢献によりノーベル物理学賞を受賞。1919年のパリ平和会議ではイタリア全権代表を務めた。1924年には大英帝国全土を短波ビームで結ぶ無線システムの提案が受け入れられて彼の会社が建設した。1933年(昭和8)世界周遊の途上で来日し、大歓迎された。
[山崎俊雄]
イタリアの発明家,企業家。無線電信を実用化したことで知られる。ボローニャの富裕な家に生まれた。マルコーニはおもに家庭教師について教育を受けた。H.ヘルツが電波を発見したあと,ボローニャ大学の教授リギA.Righi(1850-1921)は電波の実験をしていた。マルコーニはリギの教えを受けつつ1894年に無線電信の実験を始め,翌年に35kmにわたる無線電信実験に成功した。96年にはイギリスに渡り,以後はイギリスで無線の実用化を進めた。同年に無線電信に関する最初の特許を出願し,翌年〈無線電信および信号会社〉(のちマルコーニ無線電信社となる)を設立した。1900年には同調に関する特許をとった。当時は電離層の存在が知られておらず,水平線を越える遠距離無線電信は不可能と考えられていたが,マルコーニは01年に大西洋横断無線電信に成功し,07年にはこれによる営業通信を開始した。これらの業績のゆえに,彼は09年にノーベル物理学賞を授けられた。
マルコーニ社は,イギリス海軍およびロイズ海上保険会社と契約して各国の無線電信における独占をほぼ実現し,ドイツのテレフンケン社と激しい競争を繰り広げた。第1次世界大戦に際して,アメリカの無線電信がマルコーニ社に独占されていることが問題となり,アメリカ海軍とGE社の主導によりアールシーエー(RCA)社が設立されアメリカ・マルコーニ社の資産を取得した。マルコーニ自身は,第1次世界大戦にイタリアが参戦すると,イタリアに帰り枢密顧問官として軍事通信に協力した。大戦後には,パリ講和会議にイタリア代表として参加した。第1次世界大戦では,マルコーニ社は敵艦電波の方向探知法を実用化した。同社のフランクリンC.F.Franklinと協力して超短波通信を開発し,700トンの豪華ヨット〈エレットラ〉に機器を積んで実験した。この結果をもとに,マルコーニ社は1920年代にイギリスと世界中の植民地とを結ぶ短波ビーム無線網を建設した。晩年はムッソリーニとファシスト党の支持者で,ムッソリーニにより侯爵に叙せられたが,英伊開戦前に死去した。
執筆者:高橋 雄造
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1874~1937
無線電信を完成したイタリアの電気技術者,発明家。ヘルツが発見した電磁波を利用して,1895年に無線電信の実験に成功した。さらに1901年には大西洋横断無線通信に成功した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
… ヘルツの実験は各国の物理学者により追試が盛んに行われたという。しかし,電波応用の歴史は,発明家G.マルコーニによって開かれた。マルコーニは20歳のとき,ヘルツの実験を知り,コイルやコヒーラー(鉱石検波管の一種)を用いて実験を行い,95年には,10m離れたところから,電波でベルを鳴らすような装置を作ることに成功したという。…
※「マルコーニ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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