フレミング(読み)ふれみんぐ(英語表記)Paul Fleming

日本大百科全書(ニッポニカ) 「フレミング」の意味・わかりやすい解説

フレミング(Sir Alexander Fleming)
ふれみんぐ
Sir Alexander Fleming
(1881―1955)

イギリスの細菌学者。ペニシリンの発見で知られる。スコットランドで8月6日に生まれる。小学校卒業後、ロンドンの工芸学校に進んだが、のちセントメリー病院医学校で教育を受け、1908年にロンドン大学で学位を取得した。セントメリー病院ではワクチン研究所で、オプソニン(補体や抗体など、白血球の食作用を促す物質)説の提唱で有名な免疫学者ライトAlmroth Edward Wright(1861―1947)の助手になり研究に従事した。第一次世界大戦中はライトとともに創傷感染に関する研究を行った。1928年にロンドン大学教授となり、ペニシリンを発見し、ライトの死後1944年にライト・フレミング微生物研究所長となり、同年ナイトの称号を受けた。ペニシリンの研究によってフローリー、チェインとともに1945年ノーベル医学生理学賞を受けた。ロンドンの自宅で心臓発作のため1955年3月11日死去。

 細菌による感染症の対策に革命的な変革をもたらす端緒となったペニシリンが実際に医療上に使用され始めるのは第二次世界大戦中のことであるが、この物質の発見の源泉をたどると、第一次世界大戦のときにフレミングが創傷の問題、とくにその消毒法に関心をもつようになったことにさかのぼる。戦後も彼は継続して、正常な組織には無害な抗菌剤の探究に専念した。1921年にリゾチームを発見しているが、この物質の殺菌作用は強くない。その後1929年にブドウ球菌を培養しているときに、空気に数日間さらしたためにカビが生えた培養基で、カビの菌叢(きんそう)の周囲の寒天が透明でブドウ球菌が生育していないことをみいだし、カビの出す代謝産物が細菌の生育を阻止していることに気がついた。このカビは青カビ(ペニシリウム)であることが同定され、カビの出す有効物質を彼はペニシリンと命名した。この物質は人畜には毒性をもたず、多くの有害菌に対して成長抑制作用があることがわかり、論文として1929年に発表した。これがペニシリン発見の経緯である。しかしフレミングは、この物質の化学的処理については十分なことができず、治療用の広範な応用には至らなかった。

 カビの大量培養と、培養液からのペニシリンの精製が可能になったのは、フレミングの発見後12年を経てからであって、フローリーとチェインとによる。ペニシリンの発見は、その後のストレプトマイシンなどの多くの抗生物質発見の端緒となった歴史的な事件である。主論文に「ペニシリウム培養の抗菌作用について」(1929)がある。

[宇佐美正一郎]


フレミング(Sir John Ambrose Fleming)
ふれみんぐ
Sir John Ambrose Fleming
(1849―1945)

イギリスの電気工学者、二極真空管の発明者。牧師の子としてランカスターに生まれる。1870年ロンドン大学を卒業し、一時商社に勤めた。マクスウェルの『電磁気学』に感銘し、1877年奨学金を得てケンブリッジ大学に入学、キャベンディッシュ研究所のマクスウェルの下で学んだ。ここで標準抵抗値と精密比較するための抵抗ブリッジ、通称「フレミングのバンジョー」を組み立てるなど電気測定や変圧器の設計に取り組んだ。1880年ロンドン大学で博士号を取得、1885年同大学最初の電気工学教授となり、1926年まで在籍した。大学では発展しつつある電気技術の基礎をわかりやすく教えることに苦心し、「フレミングの法則」を考案した。

 実地の技術にも関心が深く、1881年から10年間ロンドンのエジソン電灯会社(後のゼネラル・エレクトリック社)の技術顧問を務め、イギリスにおける電灯と電話の開拓者の一人になった。また1900年から25年間マルコーニ無線電信会社の技術顧問を務め、1901年大西洋横断通信のニューファンドランド受信局の設計、1904年「振動バルブ」すなわち二極真空管の特許取得、1906年アンテナの指向性の理論づけを行うなど無線電信の実用化に貢献した。エジソン効果(熱電子放出)を思い出して開発したといわれる二極真空管の開発は、高周波交流の検波を可能にしただけにとどまらず、今日の電子工学への第一歩を切り開いた。1930年からはテレビジョン学会の会長として活躍、1945年4月18日死去。

[高橋智子]


フレミング(Walter Fleming)
ふれみんぐ
Walter Fleming
(1843―1905)

ドイツの細胞学者。ザクセンベルクに生まれる。ゲッティンゲン大学チュービンゲン大学およびベルリン大学に学び学位を受け、プラハ大学キール大学の教授を歴任。細胞分裂、とくに両生類細胞を材料として有糸核分裂について詳細な研究をなし、細胞遺伝学の基礎を築いた。動物染色体を研究するためにオスミック酸(四酸化オスミウム)を含む特有の固定液を開発した。これは「フレミング氏固定液」とよばれ、往時の哺乳(ほにゅう)類、鳥類、両生類などの染色体研究のための固定液として多くの細胞遺伝学者によって愛用された。またフレミングの三重染色法など、細胞形態学や細胞遺伝学研究上のいくつかの方法も考案している。

[吉田俊秀]


フレミング(Ian Fleming)
ふれみんぐ
Ian Fleming
(1908―1964)

イギリスのスパイ冒険小説作家、ジャーナリスト陸軍士官学校に学び、外交官を志したが試験に落第、1939年には海軍予備隊に志願し、第二次世界大戦中は海軍情報部に関係した。スーパー英雄007ことジェームズ・ボンドJames Bondを創作したが、最初の登場作品は『カジノ・ロワイヤル』(1953)で、その後『ダイヤモンドは永遠に』(1956)、『ロシアから愛をこめて』(1957)、『ドクター・ノオ』(1958)などを発表、とくに63年に『ドクター・ノオ』が映画化されて大評判をとり、続々と映画化されて爆発的人気をよんだ。007はイギリス情報部のスパイ暗号名で、上の二つのゼロは任務のために殺人も許されていることを示し、事実、一作品のなかで最低3人は殺しているといわれる。ハンサムで無類のタフガイ。賭博(とばく)が好きで、食事や酒にうるさく、女性に弱いという、現代男性の欲望の象徴のような存在で、このシリーズは長編12冊、短編集二冊がある。

[梶 龍雄]

『井上一夫訳『ロシアから愛をこめて』『ドクター・ノオ』(ハヤカワ文庫)』


フレミング(Sir Sandford Fleming)
ふれみんぐ
Sir Sandford Fleming
(1827―1915)

カナダの土木技術者、政治評論家。スコットランドのカークカルディ生まれ。1845年カナダへ移住。1864年ノバ・スコシア国有鉄道技師。1867年自治領カナダが成立するや同政府の主任技師として1880年まで勤め、その間の1867~1876年インター・コロニアル鉄道、1871~1880年カナダ太平洋鉄道の建設に貢献するなど、カナダにおける鉄道建設の基礎を築く。1880年カナダ太平洋鉄道の民間への委譲に伴い一線を退く。その後、大英帝国の電信の国有システムの確立、世界の時間制の統一などを提唱。1902年カナダ―オーストラリア間の太平洋海底ケーブル開通に参画したほか、数々の政策を提言した。ノバ・スコシアのハリファックスにて没。

[高橋 裕]


フレミング(Paul Fleming)
ふれみんぐ
Paul Fleming
(1609―1640)

ドイツの詩人。ザクセン出身。遠隔の地へのあこがれに誘われ、モスクワ(1633~34)およびペルシア(1636~39)への遠征使節団の一員となる。オーピッツの影響から出発したが、バロック詩特有の超個人的形式性、思想性、大げさな形象はみられず、生活と作品を統一する詩人の自意識から生まれた素朴な心にしみ入る叙情性は、ギュンターやゲーテの体験詩につながってゆく。

[小泉 進]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フレミング」の意味・わかりやすい解説

フレミング
Fleming, Victor

[生]1883.2.23. カリフォルニアパサディナ
[没]1949.1.6. アリゾナ,コットンウッド近郊
アメリカ合衆国の映画監督。1930年代のハリウッドで最も活躍した監督の一人。プロデューサーのデービッド・オリバー・セルズニックのもと,『風と共に去りぬ』Gone with the Wind(1939)を完成させ,アカデミー賞の作品賞と監督賞を獲得した。1910年にカー・スタントマンとして映画界に入り,デービッド・ウォーク・グリフィス監督の現場で撮影を担当。第1次世界大戦では撮影部として従軍し,パリ講和会議でウッドロー・ウィルソン大統領のカメラマンを務めた。のちにメトロ=ゴールドウィン=メイヤー MGMや 20世紀フォックスと契約し,クラーク・ゲーブルやスペンサー・トレーシーをスターにして高い評価を得る。初監督作品は,ダグラス・フェアバンクスが主演した 1919年の『暗雲晴れて』When the Clouds Roll By。トーキー映画初期の『紅塵』Red Dust(1932)や『宝島』Treasure Island(1934)は人気となり,ジュディ・ガーランドを起用した傑作『オズの魔法使』The Wizard of Oz(1939)ではファンタジーリアリズムを巧みに融合させた。ほかに『ジキル博士とハイド氏』Dr. Jekyll and Mr. Hyde(1941),『冒険』Adventure(1946),『ジャンヌ・ダーク』Joan of Arc(1948)などがある。

フレミング
Flemming, Walther

[生]1843.4.21. メクレンブルク,シュウェリン郊外
[没]1905.8.4. キール
ドイツの細胞学者,解剖学者。テュービンゲン,ベルリン,ロストクで医学を学び,普仏戦争に軍医として従軍ののち,プラハ大学 (1873) ,キール大学 (76~1901) の解剖学教授。合成染料を使って細胞の微細構造を染め,油浸レンズで見るという研究方法を開発,細胞学の実験技術に画期的な前進をもたらした。 1879年に,動物細胞の中に染料をよく吸収する物質が分布しているのを発見し,chromatin (染色質 ) と名づけた。さらに,細胞分裂のさまざまな段階にある細胞についてその染色質を観察し,分裂開始とともに染色質は何本かの短い棒状の構造となり,次にそれらがそれぞれ縦に2つに割れて,細胞の両端に移動することを明らかにした。染色質に起るこの一連の現象を mitosis (有糸分裂 ) と命名。これらの成果をもとにして,『細胞物質・核・細胞分裂』 Zell-substanz,Kern und Zelltheilung (1882) を著わした。このなかで,染色質は遺伝物質から成っており,有糸分裂は遺伝物質を配分する機構であると推定して,後年,再発見されるメンデルの法則に細胞学的な裏づけを与えることになる。

フレミング
Fleming, Sir Alexander

[生]1881.8.6. エアシャー,ロックフィールド
[没]1955.3.11. ロンドン
イギリスの細菌学者。最初の抗生物質であるペニシリンの発見で,その実用化に成功した E.チェーン,H.フローリーとともに 1945年のノーベル生理学・医学賞を受けた。ロンドン大学などで医学を学び,セントメアリー病院医学校でヒトの組織を侵さないで抗菌性をもつ物質を研究。 22年に唾液などに含まれる抗菌性物質のリゾチームを発見した。さらに 28年にインフルエンザの研究中,ブドウ球菌の培養皿に偶然落ちたカビが,その周囲だけ菌の発育を押えているのを発見,このカビの培養液を 800倍に薄めても,ブドウ球菌の発育を妨げた。これに彼はペニシリンと名づけて 29年に発表した。

フレミング
Fleming, Sir (John) Ambrose

[生]1849.11.29. ランカシャー,ランカスター
[没]1945.4.8. デボンシャー,シドマス
イギリスの物理学者,電気技術者。ロンドン大学を卒業後,ケンブリッジ大学で J.マクスウェルのもとで研究。 1881年ロンドンのエジソン電灯会社顧問として電信技術の発展に貢献。 85年ロンドン大学教授となり,同年電磁現象におけるフレミングの法則を発見。マルコーニ社の技術顧問として,無線受信機改良のために二極真空管を発明 (1904) 。測光の研究やテレビジョンの開発も手がけた。 1929年ナイトの称号を与えられた。

フレミング
Fleming, Paul

[生]1609.10.5. ハルテンシュタイン
[没]1640.4.2. ハンブルク
ドイツの詩人。バロック時代の最もすぐれた抒情詩人。ライプチヒで医学を学び,ロシア,ペルシアへの遠征隊に参加。ペトラルカ風のラテン語詩から出発。詩の形態に関しては M.オーピッツに学んでいるが,内容的には独自の言葉で人生と愛とをうたい上げている。ソネット,世俗詩,宗教詩,即興詩を書き,詩集に『ドイツ語詩集』 Teutsche Poemata (1642) など。

フレミング
Fleming, Sandford

[生]1827.1.7. スコットランド,カーコルディ
[没]1915.7.22. ノバスコシア,ハリファックス
カナダの鉄道技師。 1845年にカナダに移住し,まずノーザン鉄道会社に職を得,次いでインターコロニアル鉄道の建設にたずさわった。 71年カナダ太平洋鉄道の主任測量技師に任じられ,ロッキー山脈を貫徹する経路の有効性を示した。 80年引退後は数々の科学研究に従事。また熱心なイギリス帝国主義者として 87年および 94年のイギリス植民地会議には,カナダを代表して出席した。

フレミング
Fleming, Klaus Eriksson

[生]1535
[没]1597
スウェーデンの軍人,将軍。スウェーデン=ポーランド王ジギスムント3世 (ジグムント3世ワーザ ) とその叔父カルル (のちのスウェーデン王カルル9世 ) の対立においてジギスムントを支持。信任を受けてフィンランド総督となり,フィンランド人の自治権を奪い,フィンランド農民の蜂起 (1596~97) を弾圧した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

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