マルティヌス(その他表記)Martinus

改訂新版 世界大百科事典 「マルティヌス」の意味・わかりやすい解説

マルティヌス
Martinus
生没年:315-397

トゥール司教聖人パンノニアのサウァリア出身のローマの軍人であったが,355年アミアンに駐屯中,貧者の装いをしたイエスとの出会いにより禁欲的生活に入ったといわれる。ポアティエ司教ヒラリウスのもとで聖職者となり,ミラノおよびイリュリクムアリウス派の勢力と戦ったのち,360年ごろポアティエ近郊にガリア最初の修道院といわれるリギュジェLigugé修道院を設立した。372年トゥール司教になると同時に設けたマルムーティエMarmoutier修道院では聖職者の養成と伝道を行い,教勢はガリア北東部に及ぶ。5世紀中ごろから彼の聖遺物崇拝の流布とともに名声が高まり,507年クロービスの西ゴート戦での勝利は彼の霊の導きによるものとされ,これ以来,フランク王国の守護聖人となった。祝日は11月11日。
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ローマの軍人であったところから白馬に乗った騎士,また十字架を持つ司教の姿などとして美術作品に表され,ガチョウを伴うこともある。生涯の一連の場面は,すでに5世紀に表現された。寒さに震える乞食自分外套半分を切って与えたという伝説はよく美術主題とされ,一般に馬上の騎士が外套を乞食(実はキリストであったとも伝えられるため,光輪をつけていることもある)に着せかける姿で表される。病人をいやし,死者を蘇生させるなど,伝説の奇跡場面もしばしば表される。城門近くでの乞食との出会いにちなんで,町の広場彫像が飾られることも多い。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「マルティヌス」の意味・わかりやすい解説

マルティヌス
まるてぃぬす
Martinus
(315―397)

トゥールの司教、聖人。パンノニア出身のローマの軍人。335年アミアンにおいて、厳寒に震える乞食(こじき)を装ったイエスに自らの外套(がいとう)を与えた以後に、彼の禁欲的生活が始まったといわれる。360年ごろポアチエ近郊に西方世界の最初の修道院といわれるリギュジェ修道院を、さらに372年のトゥール司教叙任直後、同都市にマルムティエ修道院を設立した。エジプト的、オリエント的修道制の影響を受けた同修道院の形態は、彼の僧房を中心とする弟子たちの僧房の集合体であったが、規約は存在しなかった。507年クロービス1世が西ゴート戦をマルティヌスの霊の導きで戦勝したと信じて以来、彼はフランク王国の第一級の国家聖人として崇敬の対象となった。

[徳田直宏]

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世界大百科事典(旧版)内のマルティヌスの言及

【コンスタンツ公会議】より

…もう1人の教皇グレゴリウス12世は同年7月4日自立的退位を公会議に通告したが,残る教皇ベネディクトゥス13世は皇帝がみずから説得に当たったにもかかわらず退位を拒否したので,17年7月26日の会議で廃位を宣告された。公会議は新教皇にローマの名門出の枢機卿コロンナOddo Colonnaをマルティヌス5世として選んだ。それにより長期にわたった教会分裂は終わり,公会議は所期の主要目的を達成した。…

【シスマ】より

…たびたびの軍事行動をも伴った双方の教皇たちのこの対立は各国の政治的利害が複雑に絡み合って深刻化し,これを解決しようとした1409年のピサ教会会議はアレクサンデル5世Alexander Vを新教皇に選んだ。しかし,かえって3人の教皇を鼎立(ていりつ)させる結果に終わって失敗し,ようやくコンスタンツ公会議による2教皇の廃位と1教皇の自主退位,新教皇マルティヌス5世Martinus Vの選出によって解決を見た。なお,東西関係ではアカキオスのシスマ(484‐519)やフォティオスのシスマ(858‐886)が著名であるが,1054年から現代まで続いている東方正教会とローマ教会とのシスマがとくに注目される。…

【バーゼル公会議】より

…教皇マルティヌス5世Martinus Vによって1431‐39年スイスのバーゼルに召集・開催された公会議。東西教会の合同とフス派戦争の終結を目的とした。…

【ローマ[市]】より

…77年グレゴリウス11世はアビニョンからローマに戻ったが,1417年のシスマ(教会の分裂)解消のときまで,ローマにおいては貴族の対立,さらにはナポリ王の干渉が続いた。
[ルネサンス期のローマ]
 1417年,コロンナ家出身のマルティヌス5世が,コンスタンツ公会議において教皇に選ばれ,宗教上の権威のみでなく世俗的勢力の拡張に努めた。以後,ローマの主要貴族のみでなく,イタリアの政治的有力者の関心は教会勢力と対立することではなく,一族の中から枢機卿や教皇を出して,教会勢力との結びつきを強めることにあった。…

【ガチョウ(鵞鳥)】より

…逆にガチョウたちに追いかけられる娘は夫をもてないという。11月11日の聖マルティン(マルティヌス)の祝日にガチョウの丸焼きを食べるのはよく知られる風習だが,マルティンとガチョウの結びつきは,彼がトゥールの大司教に選ばれたとき身を隠したが,それをガチョウが鳴いて居場所を教えたためとか,主神オーディンにささげられた聖なるガチョウがキリスト教改宗とともにマルティンに移されたからとする説がある。マルティン祭は古くから冬の始まりとされ,そのころガチョウは脂がいちばんのっておいしい時期でもあった。…

【聖遺物】より

…4世紀にはすでに聖遺物崇拝が定着している。聖マルティヌス(サン・マルタン)の臨終(397)には,トゥールとポアティエの住民が集い,遺骸の帰属をめぐって争った。9世紀にはローマから殉教者の遺骨を北ヨーロッパの諸修道院へ輸送斡旋したデウスドーナなる人物の活躍が知られている。…

【聖人伝】より

…コンスタンティヌス帝とリキニウス帝によるキリスト教公認(ミラノ勅令,313)以後は殉教者以外の聖人もしだいに崇敬されるようになった。エジプトの修道士パウロス,アントニウスがまず対象となり,西方ではガリアに伝道したマルティヌス,アイルランドに渡ったパトリックらも加えられた。マルティヌスにはスルピキウス・セウェルスSulpicius Severus(360ころ‐420ころ)やトゥールのグレゴリウスによる伝記がある。…

【聖マルティン祭】より

…キリスト教の聖人マルティヌスを記念するローマ・カトリック教会の祝日。11月11日。…

【チャペル】より

…キリスト教徒の礼拝堂,祭室。語源は,トゥールの司教マルティヌスの着用していた〈カッパcappa(長衣)〉で,聖遺物であるその衣の安置所をチャペルといった。またマルティヌスの長衣を初期フランクの諸王が持ち歩き礼拝のときに飾ったところから,城内の礼拝所をチャペルと呼ぶことになったともいう。…

※「マルティヌス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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