日本大百科全書(ニッポニカ) 「ヒラリウス」の意味・わかりやすい解説 ヒラリウスひらりうすHilarius(310ころ―367) 初代キリスト教の有力なラテン教父。フランスのポワチエの高貴な異教徒の家庭に生まれる。当時の修辞学、哲学に通暁していたが、人生の意味を問い求め、聖書を学ぶようになり、ついには改宗して洗礼を受けた。350年ごろ、聖職者と民衆に推されて故郷ポワチエの司教に選出された。アリウス派との論争に参加し、正統信仰の擁護に尽力した。アリウス派を論駁(ろんばく)する主著『三位(さんみ)一体論』12巻を著した。これはアウグスティヌスの『三位一体論』に影響する。そのほか『教会会議』もある。[中沢宣夫 2017年12月12日][参照項目] | アリウス主義 | 教父 | 三位一体 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ヒラリウス」の意味・わかりやすい解説 ヒラリウスHilarius [生]?. サルジニア[没]468.2.29.サルジニア(→サルジニア島)出身の第46代教皇(在位 461~468)。聖人。449年,エフェソスで東ローマ皇帝テオドシウス2世(在位 408~450)によって強引に開催された盗賊教会会議に,教皇レオ1世(在位 440~461)の特使として出席し,コンスタンチノープルの総大司教フラウィアヌスを退ける決定に反対した。その訴えは無視されたが,ヒラリウスはローマへ逃れ,レオ1世の後継者に選ばれた。悪弊を正し,南ガリアやスペインから提起された論争を解決するなど,賢明で熱心な管理者であった。465年にヒラリウスが開催した宗教会議は,制定された法律が現存する最古のローマの宗教会議である。祝日は 2月28日。 ヒラリウス[ポアティエ]Hilarius(Hilary) of Poitiers [生]315頃.ポアティエ[没]367. ポアティエラテン教父。聖人。教会博士。新プラトン主義から改宗。 353年頃生地の司教となり,正統派の先頭に立ってアリウス派と戦い,「西方のアタナシウス」と呼ばれた。 356~360年フリュギア流罪中にギリシア教父を研究,『三位一体論』 De trinitateと『教会会議について』 De synodisを著わし,東方と西方の思想的仲介の役を果した。賛美歌作者でもあり,『マタイによる福音書』の注解も行なった。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報