ドイツの宗教思想家で、ドイツ農民戦争の指導者。中部ドイツのシュトールベルクに生まれる。ライプツィヒ大学で学び、初めザクセン各地で下級聖職者として働いた。ルター派とは早くから接触し、当初はこれを支持し、1520年ルターの推薦でツウィッカウ市の説教師となった。そのころより急進的活動を開始し、ツウィッカウを追放されたのち、一時プラハに赴いた。帰国して、1523年アルシュテット市の司祭となり、下層市民、鉱夫、農民に説教し、これを秘密結社に組織した。翌1524年8月ふたたび追放され、一時南ドイツを遍歴したのち、ミュールハウゼン市に移った。ここでは急進的聖職者ハインリヒ・プファイファーHeinrich Pfeiffer(?―1525)と協力して、市参事会を変革することに成功し、同市を農民戦争の有力な拠点たらしめた。しかし、ヘッセン方伯フィリップPhilipp von Hessen(1504―1567)ら諸侯軍の攻撃を受け、フランケンハウゼンの戦い(1525年5月15日)に敗れて捕らえられ、ミュールハウゼンで斬首(ざんしゅ)された。
彼の宗教思想は、神秘主義的色彩が濃く、聖書よりは「神の直接的啓示」を至上の宗教的体験とし、その体験を受け入れる前提としていっさいの現世的欲望の放棄を強調した。そして、このような真のキリスト者による平等な「神の王国」の実現は、歴史的必然であり、眼前の農民戦争がそれである、と説いた。領主支配の廃止、「すべては共有である」と説く彼の思想は、現代共産主義の先駆として、今日高く評価されている。
[瀬原義生 2018年1月19日]
『マルクス=エンゲルス全集刊行委員会訳『ドイツ農民戦争』(『マルクス=エンゲルス全集』第7巻所収・1961・大月書店)』▽『田中真造著『トマス・ミュンツァー』(1983・ミネルヴァ書房)』
ドイツの宗教改革者,再洗礼派の神学者。チューリンゲンでの農民戦争の思想的指導者。ハルツのシュトルベルクに職人の子として生まれた。ライプチヒ大学,フランクフルト・アン・デル・オーデル大学に学ぶ。聖職者となり,早くから強烈な反体制的志向をもち,ルターが宗教改革を開始すると,まもなくルターの陣営に身を投じ,カトリック教権制を激しく攻撃した。しかしルターの教義を信奉したことはなく,一方で,ドイツ神秘主義の伝統に立って,霊魂の基体における神の啓示にのみ信仰と救済の根拠を認めた。他方,ルターの推薦で説教職に就いたツウィッカウでは,幻や夢の形で聖霊の啓示を受けて終末を預言する織布職人シュトルヒNikolaus Storchのグループ〈ツウィッカウの預言者たち〉との接触を経て,堕落した既成の抑圧・依存の秩序の早急な終末と,本来の平等な神の秩序の回復,すなわち,地上における神の国の設立を主張した。重なる追放と流浪の後,ザクセン選帝侯領の小都市アルシュテットの司祭となり,教会典礼の改革と,改革された典礼の最初のドイツ語訳を行い,市民の間に急進的な宗教改革の母体として同盟を組織した。しかし,既成秩序を容認するルターの弾劾を受け,さらにザクセン選帝侯権力に妨害されたため,チューリンゲンの帝国都市ミュールハウゼンに拠点を移した。以後は,すべての聖・俗支配者を〈背神の徒〉と断罪し,現存秩序の即時の革命的変革を主張。チューリンゲンに波及した農民戦争を,背神の徒に対する〈神の選ばれた者たち〉の聖戦と解釈し,この戦争に,地上における神の国の始まりを見て,積極的に参加。指導的役割を果たしたが,諸侯の連合軍に敗れて捕らえられ,1525年5月27日,斬首された。
→ドイツ農民戦争
執筆者:田中 真造
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1490?~1525
ドイツの宗教的・社会的革命運動の指導者。フス派的な神秘主義の影響下にルターの改革運動の不徹底性,特に聖書のみを啓示源泉とする客観主義や反律法主義を攻撃。ミュールハウゼンを中心にテューリンゲン各地で農民,下層市民を扇動,終末論的な「貧しき者の王国」をめざしてドイツ農民戦争の一翼を担ったため,農民軍の敗退とともに捕えられ処刑された。
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…しかし〈ツウィッカウの預言者たちZwickauer Propheten〉に見るような熱狂も最初から存在して,これを抑えざるをえないルターの改革は,たとい教皇を悪魔として退けるにせよ,現実にはカトリック教会の慎重な改組以上のものとはなりえないことも予見されていた。 1524年春には,それまで改革の協力者だったミュンツァーによって農民運動が起こり,最初は改革に結びついていたがやがて離れ,ルターからはげしく非難されたのみならずカトリック諸侯からさらにきびしく処置された。これを契機として改革運動が民衆から離れ,以後領邦君主の利害関係が反映したり,福音主義内部での教義論争に動かされて,改革が〈同盟と信条〉のレベルで行われたことは宗教改革の限界を示すものといえるかもしれない。…
…事態を憂慮したルターのウィッテンベルク帰還(1522春)によってこの騒擾自体は収まったが,同種の急進主義は,伝統的な社会体制を変革しようとする下層市民や農民の要求と結びついて各地に飛火し,教会秩序を混乱させる危険を生んだ。〈狂信派〉の最も有力な指導者として活躍したのがトマス・ミュンツァーで,彼は1525年の有名なドイツ農民戦争に大きな役割を演じ,反乱が領邦君主により武力で鎮圧される中で処刑された。この経験は,もともと社会観において保守的だったルターやその協力者たちに強い衝撃を与え,以後,宗教改革の政治的主導権は領邦君主に移っていく。…
… 16世紀に入って,チューリンゲンはドイツ農民戦争の中心の一つとなった。ミュンツァーが,1525年4月,ミュールハウゼン市を中心として農民を組織し,同市の市民・農民合同団をはじめ,フルダ修道院領,ランゲンザルツァ,エルフルトなどに農民団が結成され,多くの修道院,城砦が焼き払われた。ヘッセン方伯フィリップらの封建軍がチューリンゲンに進撃し,フランケンハウゼンの戦で農民軍を撃破したのは同年5月15日のことである。…
…北フランケンには,ビルトハウゼン農民団が形成され,フランケン3農民団は,5月9日,ビュルツブルク司教のマリーエンベルク城を囲んだが,攻め落とすまでにはいたらなかった。 チューリンゲン地方では,ミュンツァーを中心として運動がすすめられた。ミュンツァーは1525年3月ミュールハウゼン市の市会を改組して〈永久市参事会〉を設立し,4月下旬ミュールハウゼン市民・農民合同団を成立させ,ほかにフルダ修道院領,ランゲンザルツァ,エルフルトなどに農民団が結成され,多くの修道院,城砦を焼き払った。…
※「ミュンツァー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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