中部ドイツの地方名であり,ドイツ統一後に旧東ドイツのエルフルト,ズール,ゲーラ3県を合わせて創設された州(ラント)名。州の面積は1万6171km2,人口は229万(2007),州都はエルフルト。チューリンゲンの森とその北に広がるチューリンゲン盆地をもって構成され,ゲーラ川,ザーレ川,ウェラ川が貫流する。穀物,野菜,果実,テンサイを産し,とくにエルフルト地方の花卉園芸,野菜園芸,採種業は世界的に有名。一方,工業化も進み,エルフルト地方では電気機器,機械,車両工業,アポルダ,ゲーラ,グライツでは繊維工業がみられる。とくにズール地方のカリ鉱業,イェーナ市にあるツァイス工場の双眼鏡,顕微鏡,天体望遠鏡その他の精密機器が有名。イェーナでは光学機器のための特殊ガラス,耐熱ガラス(イェーナ・ガラス)がつくられ,イェーナの南にあるカーラの陶磁器工場,シュワルツァの人絹工場も重要である。工業的に重要な都市はアイゼナハからゴータ,エルフルト,ワイマールを経てアポルダに至る鉄道線路に沿ってあり,これらはそれぞれドイツの歴史上,重要な役割を演じた都市である。ほかにミュールハウゼン市が中世の帝国都市として著名である。
この地にチューリンゲン族が定着したのは,民族大移動期の5世紀初めのことで,この地方をやや超えた規模の王国を建てたが,一時フン族のアッティラ王に従属した。531年フランク族とその同盟者であるザクセン族によって征服され,634年までフランク王の直接支配下にあった。同年フランク王ダゴベルト1世は部族代表ラドルフ1世をチューリンゲン公に任命し,彼のもとでチューリンゲン族は事実上の独立を回復した。彼らが再びフランクの支配下に入るのは8世紀初頭カール・マルテルのときで,彼は公位を廃し,この地をいくつかの伯領に分割した。8世紀初頭にはまた聖ボニファティウスによるキリスト教化がすすみ,エルフルトに司教座が置かれた(ただし,この司教座はのちマインツ大司教座に吸収合併された)。次いでカール大帝は,804年スラブ人に対する防衛線をザーレ川と定め,チューリンゲンを辺境伯領とした。カール大帝の孫ルートウィヒ2世は,トラクルフをチューリンゲン公に封じ,その子孫は908年まで辺境伯を称している。同年この地はザクセン大公(リウドルフィング家)によって奪われたが,同家のハインリヒ1世がドイツ国王に,さらにその息子オットー1世が神聖ローマ皇帝となったため,またこの間ドイツ人の居住地域がザーレ川を越えてはるか東方に進出したためこの地は辺境伯領としての意義を失い,むしろドイツ領の中核となった。
チューリンゲンに新しい権力が樹立されるのは11世紀半ばであった。フランケンのライネッケ伯の支族で,居城シャウエンブルクを出身地とするルドウィング家が台頭し,同家のルートウィヒ髯(ひげ)侯は結婚と買収によってこの地の大部分を領有するにいたった。彼の死後(1056),その息子ルートウィヒ飛翔侯は,叙任権闘争にさいして皇帝ハインリヒ4世に対するザクセン諸公国の反乱と行動をともにした。彼のとき,本拠としてアイゼナハの近傍にワルトブルク城を築いている。
彼の息子ルートウィヒは,1130年皇帝ロタール2世よりチューリンゲン方伯に叙せられ,37年グーデンスベルク家のヘドウィヒと結婚して,ヘッセン地方の大部分を得た。彼のあとを継いだルートウィヒ2世峻厳侯Ludwig Ⅱ Eiserne(1128ころ-72)は,皇帝フリードリヒ1世の妹ユーディットと結婚し,同帝とザクセン公ハインリヒ獅子公の対立にあたっては,もっぱら皇帝側の前衛として活躍した。次のルートウィヒ3世敬虔侯は,57年皇帝フリードリヒ1世のイタリア遠征に随行し,ハインリヒ獅子公との関係決裂にさいしては皇帝を助け,また第3回十字軍に参加して,90年帰途キプロスで死んだ。そのあとを弟のヘルマン1世HermannⅠ(1155ころ-1217)が継ぐが,彼は文芸愛好の君主として知られ,ドイツ中世吟遊詩人の代表者であるワルター・フォン・デル・フォーゲルワイデ,ウォルフラム(エッシェンバハの)などが彼の宮廷のあるアイゼナハを訪れ,13世紀半ばに成立した長編抒情詩《ワルトブルクの歌合戦》は,中世チューリンゲン文化の全盛期をしのばせるものがある。13世紀初頭の方伯ルートウィヒ4世Ludwig Ⅳ der Heilige(1200-27)は,ハンガリー王の娘,聖エリザベートと結婚したが,皇帝フリードリヒ2世に従って第5回十字軍に出征し,オトラントで死去した。この若い伯の死は大きな衝撃を与え,のち聖者と仰がれ,《聖ルートウィヒの十字軍行》という韻文詩にうたわれた。ルドウィング家の家系は彼ののち2代ほど経て,1247年に絶える。
相続争いののち,チューリンゲンは1263年マイセン方伯ハインリヒ3世(ウェッティン家Wettiner)の手に帰す。彼の息子アルブレヒトは,93年その領地を国王アドルフ・フォン・ナッサウに売却したが,アルブレヒトの子フリードリヒ無怖侯はこの移転に疑義を唱え,アドルフとその相続者アルブレヒト1世と争い,これを1307年撃破し,領地を取り戻した。彼の相続者たちは,地域内の中・小領主を抑えてその権力を拡大はしたが,しかし,強固な領邦国家を築くまでには至らなかった。なお,同家の手で,92年エルフルト大学が設立されている。ウェッティン家は,ザクセン選帝侯位を得たが,1485年アルベルト家系とエルンスト家系に分かれ,チューリンゲンの大部分は後者の領有に移った。
16世紀に入って,チューリンゲンはドイツ農民戦争の中心の一つとなった。ミュンツァーが,1525年4月,ミュールハウゼン市を中心として農民を組織し,同市の市民・農民合同団をはじめ,フルダ修道院領,ランゲンザルツァ,エルフルトなどに農民団が結成され,多くの修道院,城砦が焼き払われた。ヘッセン方伯フィリップらの封建軍がチューリンゲンに進撃し,フランケンハウゼンの戦で農民軍を撃破したのは同年5月15日のことである。5月26日ミュールハウゼン市は陥落し,27日ミュンツァーらが処刑されて,一揆は鎮圧された。
18世紀には,チューリンゲンはドイツ文化の中心となる。16世紀末からザクセン公の首府がワイマールに移されるが,カール・アウグスト公(1775-1828)のとき,宰相としてゲーテが招かれ,そのもとにシラー,ヘルダーなどが集まり,ドイツ古典文化の黄金時代を現出した。第1次世界大戦ののち,1919年2月ワイマールに国民議会が召集され,いわゆるワイマール憲法が制定されたのは,こうした自由の伝統の現れといえよう。
執筆者:瀬原 義生
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
中部ドイツの地方名。旧ドイツ民主共和国(東ドイツ)南西部の、エルフルト、ズール、ゲーラ3県に相当した。1946~52年は同国の一州であった。チューリンゲンの森とその北に広がるチューリンゲン盆地からなり、ゲーラ川、ザーレ川、ウェラ川が貫流している。面積1万5209平方キロメートル、人口253万1400(1983)。農業地帯で、エルフルト県の花卉(かき)園芸、野菜園芸、採種業は世界的に有名。中央を東西に貫く鉄道幹線に沿って、西からアイゼナハ、ゴータ、エルフルト、ワイマールと都市が連なり、そこに電気機器、機械、車両工業が発達した。ほかにズール県のカリ鉱業、ゲーラ県イエナ市にある光学機械製造会社ツァイスの双眼鏡、顕微鏡、天体望遠鏡などが有名である。
[瀬原義生]
この地にチューリンゲン人(地方名はこの民族名に由来する)が定着したのは、民族移動期にあたる5世紀初めのことである。チューリンゲン王国は531年フランク人によって征服されたが、その後事実上の独立を回復し、8世紀初めフランクの宮宰カール・マルテルはふたたびチューリンゲンを征服しなければならなかった。8世紀初めには聖ボニファティウスによるキリスト教化も進み、エルフルトに司教座が置かれた(のち、マインツ大司教により吸収される)。カール大帝はザーレ川をスラブ人に対する防衛線と定め、チューリンゲンを辺境伯領としたが、その後のドイツ人の東方進出により、この地は完全な内陸地と化し、とくに10世紀にここを領有するに至ったザクセン公(リウドルフィング家)が神聖ローマ皇帝となると、皇帝領の中核となった。
11世紀になると、新しい権力者が出現する。フランケン地方出身のルドウィング家が進出し、ルートウィヒ髯(ひげ)侯は結婚と買収によってこの地の大部分を得た。同家は1130年皇帝ロタール2世によりチューリンゲン方伯に叙せられている。12世紀後半に入ると、同家は皇帝家であるシュタウフェン朝と姻戚(いんせき)関係に入り、皇帝のために働いている。たとえば1172年方伯となったルートウィヒ3世(敬虔(けいけん)侯)は、皇帝フリードリヒ1世(赤髯(あかひげ)王)に随行してイタリア遠征に参加し、皇帝とザクセン公ハインリヒ(獅子(しし)公)の関係が決裂するや、皇帝の前衛として活躍し、また第3回十字軍に参加して1190年キプロスで死んだ。その後を継いだヘルマン1世は文芸愛好の君主として知られ、ドイツ中世吟遊詩人の最高峰ワルター・フォン・デァ・フォーゲルワイデらが彼の宮廷ワルトブルク城(アイゼナハ近傍)を訪れ、13世紀なかばにはこの史実に題材を得て、長編叙情詩『ワルトブルクの歌合戦』が編まれている。13世紀初頭の方伯聖ルートウィヒは、ハンガリー王の娘、聖エリザベートと結婚したが、皇帝フリードリヒ2世に随行、第5回十字軍に参加してオトラントで死去し、のち聖者と仰がれた。ルドウィング家の家系は、彼ののち2代を経て、1247年に絶える。
その後は、マイセン方伯(ウェッティング家)がチューリンゲンを領有し、さらに1440年にはその領有権はザクセン選帝侯家(エルネスティン家系)に移り、1815年プロイセン王国に併合された。
1525年トマス・ミュンツァーによって組織されたチューリンゲン農民戦争、18世紀後半ワイマールの宮廷を舞台として、ゲーテ、シラーによって展開されたドイツ古典文化の全盛、1919年制定されたワイマール憲法などは、いずれもチューリンゲン地方に培われた自由の伝統を物語るものであろう。
[瀬原義生]
民族大移動期に形成されたゲルマン系の部族集団。ヘルムンドーレル人の一部に、ユトランド半島から南下したアンゲル人、ウァルネン人が混合して、現在のチューリンゲンThüringen地方で形成されたと思われる。5世紀には、ウェラ川とエルベ川に挟まれる中部ドイツに広がり、6世紀初頭には王国を形成し、東ゴート国王テオドリックと同盟を結び、当時の国際政治のうえで重要な役割を演じたが、フランク王国の勢力が東方に拡大してくると、両者の間に抗争が起こり、フランク分国王テウデリヒはザクセン人と結んでチューリンゲン王国を滅ぼし、ウンストルート以北はザクセン人に割譲され、残りはフランク王国に併合された。チューリンゲン人は独自の部族法典をもったが、部族としての重要性をしだいに失い、カロリング時代末期、ドイツ王国の初期においても、独自の部族大公領を形成することはなかった。
[平城照介]
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