ミースファンデルローエ

デジタル大辞泉 「ミースファンデルローエ」の意味・読み・例文・類語

ミース‐ファン‐デル‐ローエ(Ludwig Mies van der Rohe)

[1886~1969]ドイツ生まれの建築家。近代建築様式の代表者一人で、鋼材・ガラスによる高層建築提唱バウハウス最後校長を務めたのち、米国亡命

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精選版 日本国語大辞典 「ミースファンデルローエ」の意味・読み・例文・類語

ミース‐ファン‐デル‐ローエ

(Ludwig Mies van der Rohe ルートウィヒ━) ドイツ生まれの建築家。近代建築様式の代表者の一人で、鋼材・ガラスによる高層建築を提唱。バウハウスの最後の校長を務めたのち、アメリカに亡命。(一八八六‐一九六九

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改訂新版 世界大百科事典 「ミースファンデルローエ」の意味・わかりやすい解説

ミース・ファン・デル・ローエ
Ludwig Mies van der Rohe
生没年:1886-1969

ドイツに生まれ,後半アメリカで活躍した建築家。アーヘンの石工親方の子。ベルリンで,家具デザイナーのパウルB.Paulのもとで,ついで1908-11年AEG社デザイン顧問(1907以降)として活躍しはじめたP.ベーレンスの事務所で働く。12年,オランダの富豪クレーラー・ミュラーの邸宅設計を機に自立したものの,第1次大戦のため軍務に服する。戦後ベルリンの前衛芸術家集団〈11月グループ〉に参加し,建築部長を務める。このころ,フリードリヒ街の事務所ビル案(1921),〈ガラスの摩天楼〉案(1922),コンクリートの事務所ビル(1922)を発表し,鉄とガラスとコンクリートによる事務所建築の将来像を大胆的確に予言する。また煉瓦造田園住宅案(1923),コンクリート造田園住宅案(1923)では,デ・ステイル派の影響を受けつつも単純で豊かな独自の空間構成をすでに提示している。26年ドイツ工作連盟副会長となり,翌年のワイセンホーフ・ジードルング展の全体計画を担当。30年バウハウスの第3代校長となり,33年の閉校まで務める。この間,バルセロナ万国博ドイツ館(1929),トゥゲントハット邸(1930)などにより,かつて田園住宅案で示した流れるような空間構成を実現。37年アメリカへ移住し,イリノイ工科大学主任教授として後進の指導に当たるかたわら,アメリカのすぐれた技術を得て,かつて予言した鉄とガラスとコンクリートの特性を最大に生かした建築を実現していく。ファーンズワース邸(1950)は田園住宅案につらなり,レークショア・ドライブアパート(1951)は〈ガラスの摩天楼〉案に基づいている。しかし,彼はさらに高度な技術をふまえながら単純で豊かな単一空間を求め,イリノイ工科大学クラウン・ホール(1956),ベルリンの国立美術館(1968)らを手がける。また一方,高層建築シーグラム・ビル(1958,P. ジョンソンと共同)の影響は広く世界の大都市に見られる。
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世界大百科事典(旧版)内のミースファンデルローエの言及

【近代建築】より

機能主義建築
[国際様式]
 1920年代に入ると,20世紀初頭に見られた建築の動きはヨーロッパ全体に影響を与える運動となってゆく。1919年に設立されたバウハウスは,ナチスの迫害を受けながらも,総合的な造形教育システムを打ち立て,校長を務めたグロピウスやミース・ファン・デル・ローエらの建築理念に基づき新しいデザインを推進した。特に後者の〈ガラスの摩天楼Glass Skyscraper〉案(1921)は,彼が後に発展させることになるカーテンウォールの高層ビルの原型を示すものであった。…

【バウハウス】より

…この時代にヒルバーザイマーL.Hilberseimer,ペーターハンスW.Peterhansが教授陣に加わって都市計画と写真の専門クラスができる。しかしマイヤーの政治的思想は,バウハウスの敵対者の攻撃の火に油を注ぐ結果になり,30年彼は退任を余儀なくされ,L.ミース・ファン・デル・ローエが後任の校長になる。この間,26年には雑誌《バウハウス》が創刊され,25‐30年には《バウハウス叢書Bauhausbücher》(14冊)が刊行された。…

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