17世紀後半のスペイン盛期バロック絵画を代表する画家。セビリャに生まれ,同地で没。スペインの画家としては例外的に,生前からピレネー以北に知られ,スペイン独立戦争の際には,彼の作品はフランスの将軍たちの略奪の主要対象となった。その名声は,ロマン主義時代に頂点に達したが,20世紀に入って甘く感傷的という理由で急速に低下した。しかし1980年代になって,デッサン,色彩,構図のみごとさに注目し,再評価する動きが出ている。
1645年に脚光を浴びはじめたムリーリョは,《小鳥の聖家族》《ロザリオの聖母》など,スルバラン風の明暗法に自然主義を加えた画法で出発した。しかし,ラファエロやベネチア派の巨匠たち,ルーベンスやファン・デイク,さらにリベラらの作品を研究した後,自由な筆触,明るく華麗な色彩,巧みな構図による純然たるバロック画家に成長し,たちまちスルバランに代わり,アンダルシアの教会や修道院の注文を独占した。《アントニウスの幻視》《悲しみの聖母》《ナフキンの聖母》《ローマの貴族ユリアヌスの夢》などが,その様式展開を示している。ムリーリョはまた,対抗宗教改革運動の宗教的,美的な理想の代表的な表現者でもあり,とくにスペイン,その中でもセビリャで熱烈であった〈原罪の聖母〉に対する信仰を,数多い甘美で感傷的な《無原罪の御宿り(処女懐胎)》で謳歌した。イエスの幼年時代を描いた作品も多く,それらは真珠のような色彩でロココを先駆している。しかし,スペイン人らしいリアルな視覚は終生忘れず,《虱を取る少年》《窓辺の少女たち》等,浮浪児や庶民の生活を温かいまなざしで描いた特異なジャンルを開拓した。60年セビリャにアカデミーを創設,初代会長として後進の指導にもつくした。
執筆者:神吉 敬三
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スペインの画家。17世紀後半のスペイン盛期バロックを代表する。セビーリャに生まれ、同地に没した。スルバランやホセ・デ・リベラを研究、明暗法と自然主義を出発点としたが、ラファエッロやベネチア派の巨匠たち、ルーベンスやファン・ダイクから多くを学び、自由な筆触と巧みな構図、明るく華麗な色調のバロック絵画を確立し、セビーリャ派の指導的存在となった。
彼はアンダルシア地方の教会や修道院のために数多くのシリーズを制作したが、同時にカトリック教会による対抗宗教改革運動の代表的な画家でもあり、スペインでとくに熱烈だったマリア信仰を、一連の甘美で黄金調の『無原罪の御(おん)やど』や親近感あふれる『聖母子像』に反映させた。イエスの幼年時代を描いた作品も多く、それらの色彩は真珠のような輝きをみせ、ロココを先駆している。一方、『虱(しらみ)を取る少年』をはじめ、セビーリャの浮浪児をリアルにしかし慈愛に満ちたまなざしで描いた魅力的な風俗画も残した。1660年、バルデス・レアルとともにセビーリャに絵画アカデミーを創設、後進の指導にも尽くした。また彼は、スペインの画家としては例外的に、生前からピレネー山脈以北にも知られ、その名声はロマン主義時代に頂点に達した。20世紀に入ってその反動が現れ、低俗視されたこともあるが、1980年代になってバロック絵画の巨匠として再評価され始めている。
[神吉敬三]
…それ以前は,諸キリスト教王国やイスラム王国の首都がその時々の文化の中心をなしていた。17世紀のベラスケス,スルバラン,ムリーリョといった巨匠たちを生んだのも,マドリードではなく,イスラム支配時代から重要な都市として繁栄し,後に新大陸との交易を一手に掌握したセビリャであったのである。
[古さゆえの新しさ]
イスラムと対立・併存した8世紀間,スペインのキリスト教はファナティックで好戦的なものに変質した。…
…これらのスペインの彫刻は,民衆の熱烈な信仰のもっとも民俗的な表出である。17世紀後半にセビリャで活躍したムリーリョもまた,反宗教改革の求める民衆的宗教団体の大成者であった。とくにセビリャ大聖堂の《無原罪のお宿り》には,近代カトリシズムのプロパガンダ様式のすべてがつくされている。…
※「ムリーリョ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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