〈近代劇〉を欧米語,たとえば英語に直せばmodern drama,あるいはmodern theatreとなろう。だがこの語を逆に日本語に訳そうとすると,〈近世劇〉〈近代劇〉〈現代劇〉の3通りの訳語が出てくる。ところが日本語の〈近代劇〉は〈近世劇〉(〈古典劇〉)とも〈現代劇〉とも対立する(〈現代劇〉は〈時代劇〉の反対語としても使われる)。これは欧米語でmodernと呼ばれる時代が,その始まりをルネサンス期,19世紀,20世紀のいずれにおいても今日までの時代を覆うのに対して,日本語の〈近世〉は〈近代〉以降を含まず,〈近代〉は〈現代〉を含まないからである。したがってここでいう〈近代劇〉とは,通常,19世紀半ばから1880年代にかけて完成の域に達したヨーロッパのリアリズム演劇一般を意味し,時代区分としては,せいぜい第1次大戦ころまでの演劇に限られるが,この言葉は同義語を欧米語にもたないわけである。ともあれ〈近代劇〉の背景をなすのは,精神的には,宗教に代わる合理主義的思想の支配であり,生活様式の面では,機械工業の発達による交通機関,情報伝達機関,家庭器具等の急激な発展であり,経済的には,ブルジョア階級による資本主義機構の確立であり,政治的には,フランス二月革命後の反動的体制,つまりプロイセンを中心としたドイツ帝国統一に象徴される強大国による帝国主義体制の始まりである。このような時代背景の中で,個我の目覚めと市民的自由を追求した近代芸術は,必然的に同時代社会の諸矛盾に批判の光を投げかけるものとなった。近代リアリズム演劇もまた,社会問題から人間の内面的問題にまで及ぶ〈問題劇〉たる性格をあらわにする(社会劇)。この種の劇は既成劇場でなかなか受け入れられず,若い演劇人による〈小劇場〉運動によって広められていったが,その運動はヨーロッパの外までも波及し,日本では明治後期から形をなしてくる〈新劇〉運動の基盤ともなった。
近代社会あるいは近代人の諸矛盾を客観的・再現的に舞台上に表現しようとする〈近代劇〉の萌芽は,18世紀の〈市民劇〉に求められる。庶民の出る劇は喜劇に限るとする伝統を破って市民悲劇が登場するのはブルジョアジーの台頭と軌を一にするが,その早い例の一つ,G.リッロ(1693-1739)の《ロンドンの商人》(1731)はロンドンはおろか大陸でも大当りし,ドイツのレッシングに市民悲劇の傑作《ミス・サラ・サンプソン》(1755)を書くきっかけを与えた。同じころフランスのD.ディドロは市民生活に題材をとったまじめな劇を提唱し,悲劇でも喜劇でもない新しい〈ドラマdrame〉なるジャンルを定式化した。彼の理論を受けて新興ブルジョアジーの活力を存分に示したのが,大革命間近いころのボーマルシェの《セビリャの理髪師》(1775初演)と《フィガロの結婚》(1784初演)である。新しい時代の問題意識はドイツの〈疾風怒濤〉期やシラーの劇作品にも明白にみられる。19世紀に入って,ユゴーの《エルナニ》(1830)に代表されるフランス・ロマン主義演劇や北欧など小国の民族的ロマン主義の演劇も,韻文形式や歴史的題材のためリアリズムに逆行するようにみえるが,伝統打破の反逆精神によって〈近代劇〉を用意する一つの土壌をつくったことは否定できない。
だが今日からみて,近代劇の先取りとすべきは,社会問題意識や人間心理の洞察の深さにもかかわらず,当時は世に認められなかったドイツのJ.M.R.レンツ,H.vonクライスト,G.ビュヒナー,フランスのL.C.A.deミュッセ,P.メリメなどであろう。とくに夭逝したビュヒナーの《ウォイツェック》は19世紀後半に原稿が発見され,下層民を主人公とした自然主義の先駆作品として評価されたが,もう一つの《ダントンの死》とともに,20世紀になってからは現代演劇の先取りともみなされてくる。彼と同年生れのC.F.ヘッベルは近代特有の運命悲劇の可能性を唱えた。大工親方一家の新旧道徳観の衝突による悲劇を描いた《マリア・マグダレーナ》(1844)は,イプセンの家庭劇に直接つながるものである。他方,日常的な散文台詞や筋立ての巧妙さなど形式面のリアリズムを推進したのは,18世紀末から19世紀前半にかけての娯楽劇作家たちで,ドイツのA.vonコツェブー,フランスのR.C.G.deピクセレクールに続いて〈うまく作られた芝居〉(ピエス・ビアン・フェット。英語ではウェルメード・プレー)の祖とされるE.スクリーブ(1791-1861)らであった。その作劇法を踏襲しながら,華やかな社会の裏面に潜む汚点に世間の目を向けさせようとしたのがÉ.オージェ(1820-89)やデュマ・フィスである。前者の《ポアリエ氏の婿》(1854)や《オリンプの結婚》(1855)等,後者の《ドミ・モンド》(1855)や《私生児》(1858)等は〈問題劇théâtre à thèse〉と呼ばれ,1850年代のリアリズム小説や美術の動きに呼応する。問題意識の浅さや散文台詞の堅さはあっても,これをもって本来の〈近代劇〉の始まりとしてよい。彼らの直接の延長上にゾラの提唱した自然主義演劇も成立するし,彼らを高く評価したノルウェーの作家B.ビョルンソンやデンマークの批評家G.ブランデスの示唆によってイプセンの社会問題劇も成立する。だが〈近代劇〉にいたるもう一つの重要な過程はロシア演劇の流れである。エカチェリナ女帝治下のD.I.フォンビージン,19世紀初めのA.S.グリボエードフをへてゴーゴリの《検察官》(1836初演)で一つの頂点を形づくる社会風刺劇の伝統は,つねに為政者の圧迫の下にあったが,それはA.N.オストロフスキーの中産階級劇,ツルゲーネフの有閑知識人劇,トルストイの農民劇等の既成劇場にすぐには受け入れられないリアリズム劇をとおってチェーホフ劇に流れ込んでいる。
ところで,リアリズム劇が舞台上のリアリズムを要求するのはいうまでもないが,古典劇の朗唱風演技を排して自然な演技を重視しだすのは18世紀後半である。演技革新を先導したのはイギリスのD.ギャリック,ドイツのK.エクホーフ,F.L.シュレーダー,フランスのF.J.タルマらだが,優れた演技は役に没入するものか否かの議論は長く続いた。ディドロは《俳優についての逆説》で,つねに自己意識を失わない俳優をよしとしている。衣装に時代考証を重んじるのも18世紀末からで,同じころ照明がアルガン・ランプに変わると,舞台の明るさが倍増して扮装の写実性も要求されてきた。1810年代のガス灯照明の始まりは舞台照明法を一変させ,ライムライトの発明から1880年代に一般化する電気照明への舞台機構の発展は,リアリズム演劇の確立に重なり合う。装置も平行衝立に代わって,19世紀半ばから室内の場合三方を壁で囲み天井もついた〈箱型装置〉が使われだす。観客はとりはずされた〈第四の壁〉からのぞき見しているという近代劇のイリュージョン的性格がここにできあがることになる。
近代劇の父と呼ばれるイプセンは,49歳になって最初の社会問題劇《社会の柱》(1877)を書いた。これはB.ビョルンソンの《破産》(1875)と同じく資本家の自己偽瞞をえぐった作品だが,続く《人形の家》(1879),《幽霊》(1881)で少人数の人物による緊密な場面構成と筋進行という,イプセン劇の古典主義にも似た基本型を確立した。とりわけ後者は,過去がしだいにあらわにされていく分析的手法を使って人間の真の自由を問う傑作で,ギリシア悲劇の《オイディプス王》に比較されたりもする。《野鴨》(1884)以降は近代人の内面問題に焦点をむけ,《ヘッダ・ガブラー》(1890)で日常生活に潜む人間心理の深淵を表現した。同じころ,隣国スウェーデンのJ.A.ストリンドベリも,《父》(1887),《令嬢ジュリー》(1888)といった男女の性の闘いを赤裸々に描いた自然主義戯曲の傑作を書いている。もう一人の近代劇の巨匠チェーホフは短編小説家として名を知られていたが,一幕物喜劇のあとに多幕物にむかった。最後の4作品《かもめ》(1896),《伯父ワーニャ》(1899),《三人姉妹》(1901),《桜の園》(1904)は,イプセンとは逆の多人数による雑多な場面構成の中で,新時代到来を夢みながら無為に生活を送っている知識人の不安と焦燥を描いた独特の〈喜劇〉である。チェーホフのあとにはゴーリキーの《どん底》(1902),《小市民》(1902初演)等が続き,社会主義リアリズムへと移っていく。ドイツのG.ハウプトマンは処女作《日の出前》(1889初演)で自然主義劇作家として名を高めたが,《織工》(1892)のあとは新浪漫主義に転じた。フランスのゾラは自己の小説《テレーズ・ラカン》を劇化(1873)したが成功とはいえず,彼の自然主義演劇論の具体化はH.F.ベックの《群鴉》(1882),《パリの女》(1885)まで待たねばならなかった。イギリスではやや遅れて,アイルランド生れのG.B.ショーとJ.M.シングが出て〈近代劇〉のしんがりを務める。それというのも1890年代からすでにH.vonホフマンスタール,F.ウェーデキント,M.メーテルリンクらの反自然主義作品が輩出しており,ストリンドベリもその傾向を濃くしていた。むろん20世紀にも〈近代劇的〉な作品がないわけではない。E.G.オニールのいくつかの作品,第2次大戦後のサルトル,カミュ,A.ミラー,T.ウィリアムズらの作品は,そう呼ばれるにふさわしい問題性を秘めているのである。
既成劇場では十全な舞台表現を与えられない過激なリアリズム劇を,それに適した方法で上演しようとしたのが19世紀終りの若い演劇人による小劇場運動であった。近代的な演出家の最初の人ともいわれるマイニンゲン公ゲオルク2世が率いる劇団の写実的な舞台に感銘を受けていたA.アントアーヌは,1887年にパリで素人俳優の集りのような〈自由劇場Théâtre Libre〉を結成し,新しい作家を世に送り出すとともにイプセンの《幽霊》や《野鴨》をフランスで初演し,トルストイの《闇の力》を世界初演(1888)した。彼はみずからも舞台に立ったが,観客に背をむけてしゃべり,舞台上に本物の肉をぶらさげるといった徹底した自然主義をめざした。その影響下に,ベルリンではO.ブラームが1889年に〈自由舞台Freie Bühne〉を創設,《幽霊》で旗揚げした。ハウプトマンを世に送ったのはこの劇場である。小劇場運動はロンドンにも波及し,オランダ生れのJ.T.グライン(1862-1935)が1891年に同じく《幽霊》で〈独立劇場〉を始める。翌年,ここからG.B.ショーが《やもめの家》で劇作家としてデビューした。モスクワではスタニスラフスキーが,ネミロビチ・ダンチェンコと語らって1898年に〈モスクワ芸術座〉をつくる。彼らは失敗作とされていたチェーホフの《かもめ》をとり上げて大成功をおさめ,彼に劇作を続ける勇気を与えた。ゴーリキーの作品も彼らが初演し,他の劇場が数年で活動を停止したのに反し,〈モスクワ芸術座〉は今日もロシア演劇の代表的な劇場として続いている。ヨーロッパ旅行から戻った2世市川左団次が小山内薫とともに1909年イプセンの《ジョン・ガブリエル・ボルクマン》で旗揚げした〈自由劇場〉も,これら小劇場運動が波及したものである。それは日本の近代劇運動を推進させるに大きな力となった。
執筆者:毛利 三彌
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19世紀末期から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパから世界各国に広まった革新的な演劇思潮、運動をいう。広義には、産業革命の進展に伴う、個人意識に目覚めた近代市民社会を背景に生まれた近代演劇全般を含むが、厳密には、1880年代から1910年前後にかけてフランスにおこり、やがてヨーロッパ各国に波及した自由劇場運動を中心とした、一連の高度な芸術的内容を目ざす演劇運動をさす。
古典主義演劇の「悲劇」「喜劇」の規範では収まりきれない、新興の市民階級の生活をまじめに正面から取り上げた中間的ジャンルとしての「市民劇」が、ディドロによって提唱されたのは18世紀のなかばであった。18世紀末から19世紀前半のロマン主義演劇の時代を経て、19世紀なかばには、市民社会の切実な問題を扱ったヘッベルの『マリア・マグダレーナ』(1844)をはじめ、オットー・ルードウィヒ、オストロフスキーらの写実的な市民悲劇が生まれてきた。この市民悲劇の伝統を完成させ「近代劇の父」とよばれたのが、ノルウェーの劇作家イプセンであった。『社会の柱』(1877)、『人形の家』(1879)、『幽霊』(1881)、『民衆の敵』(1882)などの社会劇によって、近代的な自我の覚醒(かくせい)、人間の解放、遺伝の影響、社会と個人の対立など、解体期の市民社会に内在する諸問題を、リアルな手法で暴露し、えぐりだした。以降、ストリンドベリ、トルストイ、ハウプトマンらも高い水準の写実主義戯曲を発表し、象徴主義によるメーテルリンクらもイプセンの後を追った。このころ生物学を中心に自然科学の研究が進み、また急速な技術の進歩により、科学的なものの見方と、実証主義の精神がしだいに広まり、このような合理的な近代精神に培われて、フランスでは自然主義文学が19世紀後半に生まれた。なかでもゾラは『演劇における自然主義』(1881)を発表し、現実のなかに生きる人間を取り扱い、性格と環境の生み出すドラマを掘り下げることを提唱した。
ゾラの主張や、実生活の断片を舞台に再現し、生命による動きの劇を目ざしたジャン・ジュリアンの演劇論に共鳴したフランスのアントアーヌは、1887年パリで自由劇場をおこし、自然な人生の真実の姿を舞台に再現しようとした。舞台に面した第四の壁を取り去った、嘘(うそ)のないありのままの現実の生活を舞台に示し、トルストイの『闇(やみ)の力』、イプセンの『幽霊』など自然主義戯曲の上演に画期的な成果を収めた。商業劇場が増加して演劇の商品化が進み、スター主義と空疎で低俗な演劇の流行していたヨーロッパ劇壇の風潮に反旗を翻し、反営利主義の立場から会員制度による実験的・研究的な小劇場運動を始めたアントアーヌの自由劇場の影響は、またたくまにヨーロッパ全土に波及し、各国に近代劇運動が巻き起こった。ドイツでは、1889年にブラームが自由舞台を創立し、ハウプトマンを作家として送り出した。イギリスでは、91年にジェイコブ・グラインが独立劇場をおこし、バーナード・ショーらの戯曲を取り上げ、98年にはホイーレンによるステージ・ソサエティ(舞台協会)が設立された。99年にはアイルランドでイェーツらにより国民演劇樹立の運動がおこり、のちアベイ劇場に拠(よ)るアイルランド劇団となり、アメリカの小劇場運動を誘発した。98年にはロシアでスタニスラフスキーとネミロビチ・ダンチェンコがモスクワ芸術座を創立し、リアルな演技術により、『桜の園』(1903)のチェーホフやゴーリキーなど優れた自国の作家を生み出している。日本の新劇運動の端緒となった小山内薫(おさないかおる)、2世市川左団次による自由劇場(1909創立)もこうしたヨーロッパの近代劇運動の影響下に誕生したものであった。
世界各国に及んだ近代劇運動は、近代劇作家の創作した戯曲を第一に尊重し、スター主義を否定してアンサンブルのとれた演技陣と、芸術的統率者としての演出者の出現により、精度の高い舞台を創造していった。こうして近代劇運動は完成され、やがて第一次世界大戦を境に、各国に巻き起こる現代演劇の多様な展開の基盤をつくりあげたのであった。
[藤木宏幸]
『山田肇著『近代劇十二講』(1953・未来社)』▽『『筑摩世界文学大系84 近代劇集』(1974・筑摩書房)』▽『河竹登志夫著『近代演劇の展開』(1982・日本放送出版協会)』
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…近世以後は,フランスのモリエールが作者と俳優を兼ねて一座の中心となったように,座頭俳優がこの役割をつとめた。
[新しい演出家の登場]
演出が独自の機能をもちはじめたのは,ヨーロッパでは近代劇の確立した19世紀の終りである。近代文明社会の成熟によって演劇は急激に商品化していき,特定の俳優を舞台の前面に押し出すことに腐心し,全体の調和を高めることは忘れがちであった。…
※「近代劇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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