バラ科(APG分類:バラ科)サクラ属モモ亜属(バラ科スモモ属とする説もある)の落葉性小高木。中国原産。高さは5~6メートルで、枝や幹に樹脂があり、傷がつくと分泌する。葉は互生し、基部に蜜腺(みつせん)をもつ短い葉柄がある。葉身は5~12センチメートル、長披針(ちょうひしん)形または倒披針形で先端がとがり、葉縁に小さい鋸歯(きょし)がある。前年に伸びた枝の葉腋(ようえき)に1~3個の腋芽をつける。このうち中央の芽は葉芽で、左右が花芽となり、3月下旬から4月上旬、葉に先だって開花する。花色は桃色が基本で、白、濃紅、咲き分けなどがある。萼(がく)は5枚。花弁も5枚で平開するが、重弁、菊咲きなどの変異がある。雄しべは多数、雌しべは1本で、子房には短毛の密生する種類と密生しない種類とがある。
果実は核果で大形、7~8月に熟す。果面に短毛の密生する種類と毛のない種類とがあり、前者をモモ(毛桃(けもも)ともいう)Prunus persica Batsch var. vulgaris Maxim.、後者をアブラモモ(油桃。ヒカリモモ、ズバイモモ、ネクタリンなどがある)var. nucipersica Schneid.とよぶ。果形は円、楕円(だえん)、卵、心臓、尖(せん)円、扁(へん)円形など、果皮色には桃、白黄、黄色などがある。果肉は桃、白黄、黄色などで、肉厚多汁で甘酸味が適度である。種子は1個で、表面に凹凸のある堅い核内に1個の胚(はい)がある。果肉と核の離れやすいものと離れにくいものとがあり、前者を離核性、後者を粘核性とよぶ。なお、果実および種子の扁平な1変種があり、これをハントウ(蟠桃)またはザゼンモモvar. platycarpa Baileyとよぶ。
[飯塚宗夫]
日本では、出土品によれば弥生(やよい)前期からモモが利用されていたが、果実が小さく、甘味に乏しく、果肉は堅く、かつ果汁が少ないものが多かった。これに比べ、明治初年に欧米や中国から導入された品種には優れたものが多かった。しかし、欧米の品種は、日本とは異なる気候で改良されたもので、そのままでは栽培に適さず、また、欧米の品種は輸送、日もち、加工性を主として品種改良が進められたものが中心で、生食を主体とする日本人の嗜好(しこう)には、当時はあまりなじまなかった。一方、中国中・東部の種類は日本の風土に適し、日本の栽培品種の向上に大きく貢献した。なかでも1875年(明治8)に導入されたシャンハイスイミツトウ(上海水蜜桃)とテンシンスイミツトウ(天津水蜜桃)はその後の品種改良に大きく貢献した。とくにシャンハイスイミツトウは日本では結果率が低いため直接的な栽培利用は伸びなかったが、多汁で甘く、肉質は柔らかく、大果であるため、その後優れた偶発実生(みしょう)を生み、また、交雑育種の素材として優れた素質を示した。日本で育成された主要品種は多少ともこれの血を受けたものが多い。またテンシンスイミツトウは果頂部がとがり、腰高で、果肉は赤く、肉質は粗く、いわゆる桃太郎を産んだモモの形をしたものである。これは果頂部が傷みやすいため、今日の品種ではみられなくなった。
モモは枝がわりや偶発実生による品種が出やすく、そのうえ、経済的な1樹の寿命は15~20年で、他の果樹に比べて短いため改植が行いやすいこともあって、品種の交替は早い。今日では、生食用を主とし、加工用品種も加えて、6月中旬に熟す極早生(ごくわせ)品種から、9月以降に熟す晩生(おくて)品種まであり、諸形質に関する変異は非常に広い。近年は新品種の登録も多く、1978年(昭和53)の種苗法の施行以来、2017年(平成29)までで266品種に達した。
布目早生(ぬのめわせ)、白鳳(はくほう)、大久保、白桃(はくとう)は大栽培が行われる経済品種で、さおとめ、早生桃山、あかつき、ゆうぞらは味がよく、家庭果樹として栽培しやすい品種である。早生種は無袋栽培も可能である。缶詰をはじめとする加工用品種には、欧米のオウニクトウ(黄肉桃)の遺伝的特性を入れて育成した錦(にしき)のほか、缶桃2号、同5号、同12号、同14号などが知られている。これらはよく着果し、無袋栽培も可能である。いずれも果肉は黄色で香りが強く、酸味に富み、砂糖煮、ジャムに加工される。また生食に向く品種もある。アブラモモは酸味が強いが香りもよく、味も濃厚であるが灰星病などに弱く、育成品種の興津(おきつ)は品質が優れているが、栽培はむずかしい。しかし、1983年に品種登録されたヒラツカレッドは、栽培がしやすく、味もよい品種である。ハントウは1875年シャンハイスイミツトウなどとともに中国から導入されたもので、白肉種のオオベニハントウ(大紅蟠桃)や黄肉種のキハントウ(黄蟠桃)などがあり、味はいずれも中位であるが、日本ではあまり栽培されない。
なお、スイミツトウ(水蜜桃)は古文献には品種として出ているが、現在の品種との関係は不明で、今日では、大果多汁で、果肉が柔らかく甘味の多い品種の一般名となっている。
[飯塚宗夫]
北海道から九州まで広く栽培できるが、生育期に比較的高温を好み、宮城、山形県以西で経済栽培が可能である。降雨の少ない地方でよく育ち、山梨、福島、長野、和歌山、岡山県などが主産地である。2017年時点では、全国で9700ヘクタールの結果樹面積、12万4900トンの収穫となっている。品種別ではあかつき、白鳳、川中島白桃、日川(ひかわ)白鳳の栽培面積が多い。
苗木育成は、実生の共台(ともだい)か野生モモ台を用いて、9月ごろに芽接(めつ)ぎか、2~3月に切り接ぎをする。排水のよい土壌でよく育つ。定植は11~12月または2~3月がよい。10アール当り12~33本で、砂子早生(すなごわせ)のように花粉のない品種には花粉のある品種を混植する。冬季に整枝・剪定(せんてい)を行う。定植後3年目で結実を始め、約15年で更新期に入る。施肥は10アール当り窒素15、リン酸10、カリ17キログラム。成園では10アール当り3.5トンの収穫がある。果実には紙袋をかけて保護するが、加工用品種は無袋で栽培できる。
病気には縮葉(しゅくよう)病、穿孔(せんこう)病、炭疽(たんそ)病、黒星病、灰星病などがあり、発芽前に石灰硫黄(いおう)合剤、機械油乳剤、生育期にストマイ剤、「トップジンM」「ロブラール」などの各1000倍液などを用いる。害虫は、アブラムシ、シンクイムシ、モモハムグリガ、クワカイガラムシなどで、「エストックス」や「エカチン」などの浸透性殺虫剤1500倍液、「サリチオン」乳剤1000倍液などを散布する。またコスカシバは、幹や太い枝に食い込んで糞(ふん)の混じった脂を出すので、刃物や針金で捕殺する。
[飯塚宗夫]
モモの果実は大部分が水分(89.3%)で、糖質は9.2%、ビタミン類などはほとんど含まれない。花は観賞し、果実は生食のほかに缶詰、ジュース、プリザーブ、ジャムなどに用いる。この際、白肉種の白桃は缶詰加工用として尊ばれるが、傷つくと変色するため扱いにくい。それに比べて加工用の黄肉桃は果肉がゴム質で扱いやすく、味もよいので、家庭でのシロップ漬け、サラダなどに利用。鉢植えでもよく開花結実し、径33センチメートル鉢なら十数果が得られ、また盆栽としてもよい。
[飯塚宗夫]
漢方では、開花直前のつぼみを白桃花(はくとうか)と称し、浮腫(ふしゅ)の治療に用いる。これは、つぼみに強い利尿作用があるためである。民間では、花をごま油に漬けて顔を洗うと美顔の効があるとされるほか、白桃の果肉をカツオによる中毒のときに食べるとよいといわれている。また、葉を入れた浴湯はあせもによいとされている。漢方では核の中の種子を桃仁(桃人)(とうにん)といい、浄血、緩下、鎮痛、排膿(はいのう)剤として月経不順、月経困難、腰痛、打撲症、便秘、脱疽(だっそ)などの治療に用いる。
[長沢元夫]
モモは現在その野生種が分布する中国西部から黄河上流の甘粛(かんしゅく)、陝西(せんせい)省の高原地帯が起源地である。モモはアーモンドともっとも近縁で、おそらく中央アジアに自生しているモモ亜属のある種を共通の祖先種としてもち、西方に分布して西アジアで起源されたのがアーモンドで、東方に分布して中国で起源されたのがモモであると考えられる。中国では古くから栽培され、シルク・ロードを通り、トルコを経てギリシアさらにイタリア、350年にはフランス、ドイツ、ベルギー、オランダに入った。イギリスにはフランスから13世紀に、スペインには11世紀に入った。中南米には1530年にスペインから、北アメリカには1565年に入った。日本では『古事記』『日本書紀』にモモの記述があり、江戸時代までかなり栽培されたが、小果系で、1875年(明治8)に中国から大果系が導入され、現在のようなりっぱな果実と置き換わった。
[田中正武]
バラ科のモモのなかで、花を観賞する園芸品種群をハナモモと総称する。花が八重で白色のヤエシロモモ、半八重で濃赤色のベニモモ、八重で濃紅色のヤエベニモモ、半八重で桃色のハンヤエモモ、八重で桃色のヤエモモ、花弁が細く切れた八重で紅色のキクモモ、白色と紅色の花が混生するゲンペイモモ、また、花は白色で枝は垂れ下がるシロシダレモモ、八重の紅色で枝が垂れ下がるサガミシダレ、枝が上向くホウキモモ、そのほか、幼木で開花するイッサイモモ、雌しべが数本あるザロンモモなどがある。
[小林義雄]
中国ではモモはもっとも古い果樹の一つで、河北省藁城(こうじょう)県台西村の殷(いん)代の遺跡から核が出土している。『爾雅(じが)』には冬桃、桃(しとう)、山桃などの名がみえる。漢代の「上林苑(じょうりんえん)」には7種のモモが栽培されていたと『西京雑記(せいけいざっき)』に載る。モモの花の美しさは、すでに『詩経(しきょう)』周南編で、「桃の夭夭(ようよう)たる 灼灼(しゃくしゃく)たるその華」とうたわれている。
モモは、中国では古来魔を払う力を秘めた仙木であった。6世紀の『荊楚歳時記(けいそさいじき)』は正月一日に桃板(とうばん)をつくって、戸にはる風習を載せる。桃板は桃符(とうふ)ともよばれ、百鬼を制し、家に入れない呪術(じゅじゅつ)であった。桃符は縦長の薄板で、そこに神像が描かれ、呪寿の語が書かれ、新年に取り替えられた。これは現在、紙に形をかえるが、春聯(しゅんれん)として中国に残る。『荊楚歳時記』は、モモが仙木であるゆえんを度朔(どさく)山の大桃樹の下に、神荼(しんと)・鬱塁(うつるい)の2神がいて、通る鬼を見張るとの伝承を引く。モモが威力をもつと信じられたのは、花、果、核の総合効果によると考えられる。モモの花は春に先駆けて咲く「陽」であり、果実は栄養価が高く病魔を退ける。桃の字は木偏に兆からなるが、モモの核の二つに割れる性質を、甲骨卜(こうこつぼく)のひび割れる兆しと見立ててつくられた。その割れた核の中から新しい生命(種子)が現れる。また桃の果実を女性の性と結び付け、生命力のシンボルとする見解もある。東晋(とうしん)の陶淵明(とうえんめい)の描く桃源郷も、その一つとされる。
日本には有史前に伝わり、『古事記』に登場し、『万葉集』に7首詠まれる。ただし、それらがすべて現在のモモかどうかについて、異論がある。前川文夫は、『万葉集』巻7、「向(むか)つ峯(を)に立てる桃の樹(き)成らめやと人そ耳言(ささや)く汝(な)が情(こころ)ゆ」の桃は、雌雄異株のヤマモモをあてて、初めてその歌意が生きると説き、中国から桃が渡来する以前はヤマモモがモモであり、中国の桃は当初『万葉集』の3首で詠まれるように毛桃(けもも)とよばれて区別されていたが、のちにモモの母屋(おもや)を奪ったとみた(『植物の名前の話し』1981・八坂書房)。
[湯浅浩史]
古くから邪気を払う霊的なものとして、『古事記』上の、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が黄泉(よみ)の国から逃げ帰ったときに、桃の実で難を免れた話などがよく知られる。現在の節分にあたる追儺(ついな)の行事にも、桃の弓や葦(あし)の矢を鬼を追い払うのに用いた。『万葉集』巻19「春の苑(その)紅(くれなゐ)にほふ桃の花下照(で)る道に出(い)で立つ娘子(をとめ)」(大伴家持(おおとものやかもち))のように、花の美しさも鑑賞された。平安時代以後には、3月の節供に用いられ、桃酒として花びらを浮かべて飲むなどしたが、和歌では四季の歌の景物としてはあまり意識されず、それほど詠まれてはいない。『古今六帖(こきんろくじょう)』には桃の項目があるが、用例はすべて『万葉集』の歌ばかりである。3000年に一度実がなるという西王母(せいおうぼ)の故事が流布し、『蜻蛉日記(かげろうにっき)』天暦(てんりゃく)10年(956)3月条の「三千年(みちとせ)を見つべきみには年ごとにすくにもあらぬ花と知らせむ」という藤原兼家(ふじわらのかねいえ)の歌などの例がある。『紫式部集』には、「ももといふ名もあるものを時の間に散る桜には思ひおとさじ」と、はかない桜の花よりも生命の長い桃の花に肩入れする歌がある。だが、『源氏物語』には桃の花の用例はない。『枕草子(まくらのそうし)』には「三月三日は、……桃の花の今咲きはじむる」と春から夏にかけての季節や行事の推移を記した段にみえるが、「木の花は」の段にはない。『和漢朗詠集』『新撰朗詠集(しんせんろうえいしゅう)』には、「三月三日」に「桃」が付されている。このように詩歌の世界で、桃はかならずしも有力ではない。『英草紙(はなぶさそうし)』2ノ4の黒川源太主(くろかわげんだぬし)の話に、夫の死後再婚を願い、熱心に桃の手入れをする寡婦が登場する。『百家琦行伝(ひゃっかきこうでん)』には、桃を異常に愛好し、桃の名所伏見(ふしみ)まで花見に赴いた外山成山(とやませいざん)という人物の言行が記されている。季題は、「桃の花」が春、「桃」が夏。「わが衣(きぬ)に伏見の桃の雫(しづく)せよ」(芭蕉(ばしょう))。
[小町谷照彦]
「すね」の対語で、ふとももともいう。解剖学名では大腿(だいたい)。
[編集部]
バラ科モモ亜属の落葉果樹。中国や日本で古くから栽培され多くの品種が分化している。またハナモモは花木としても重要なものである。中国の黄河上流,陝西・甘粛の両省にまたがる高原地帯(標高1200~2000m)の原産。中国から各地に伝わって変種を生じた。高さ3~8mほどの小高木で,葉は広披針形から長楕円形である。花は前年枝の葉腋(ようえき)に通常単生し,桃紅色で,葉の展開よりも先に開花し美しい。果実は野生型では径3cmほどしかないが,栽培品種は,はるかに大型で,多汁となる。
モモの品種はいろいろに分類されている。果実に細毛をもつ有毛品種群を通常はモモP.persica var.vulgaris Maxim.(英名(common)peach)といい,無毛品種群をネクタリン(油桃),果実が円盤状の品種群をバントウ(蟠桃,ザゼンモモともいう)P.persica var.platycarpa Bailey(英名peento,flat peach),矮性(わいせい)の品種群をジュセイトウ(寿星桃)P.persica var.densa Makino(英名dwarfed peach)という。また,品種群の分化した地理的・生態的特徴を加えると東洋系と欧州系に大別され,前者を華北系,華南系,バントウ系に,後者をペルシア系,スペイン系に細別することもある。この地域品種群には粘核,離核や黄肉,白肉がまざりあうこともあり,前述の分類系と一致しない。
中国での栽培歴は古く,黄肉のモモやネクタリンは7世紀ごろから栽培が始められた。現在の栽培は華北以南の各地で行われ,800以上の品種が知られている。ヨーロッパへはシルクロードを通り,ペルシア,小アジアを経てギリシア,ローマにもたらされ,ついで地中海諸国に普及してペルシア系品種群となった。一方,スペイン系品種群といわれるものはペルシア,小アジア地方から11世紀ごろにスペインにもたらされて改良され,移住民とともに新大陸に渡ってさらに改良されたものである。黄肉のモモやネクタリンは6~7世紀ごろトルキスタン地方で生じて中国とヨーロッパに伝わり,ついで新大陸にもたらされた。これが現在のヨーロッパや新大陸の諸国で栽培されている黄肉のモモやネクタリンの源である。日本では《古事記》や《日本書紀》に記載が見られるが,果樹としての栽培は江戸時代からで,当時のモモは小果で硬肉であった。大果の品種は1874年にモモとネクタリンが主としてフランスから,75年にモモの上海水蜜(すいみつ)と天津水蜜が中国から導入された。それらの品種は各地で試作されたが,日本の風土に最もよく適合した天津水蜜が一般に普及した。その後,岡山・神奈川両県下の栽培者によって上海水蜜など導入品種の偶発実生から新品種が発見されるとともに,東洋系(華南系)のモモを素材に育種も行われた。現在では日本の風土に適応した品種が多数育成,栽培されている。また,黄肉の加工用(缶詰用)品種も欧州系品種と東洋系品種との交雑により育成されている。
栽培品種には果肉色によって白肉と黄肉,核が果肉から離れるか否かによって粘核と離核の区別がある。また果肉の硬・軟によって溶質と不溶質(ゴム質)に分けられる。前者は果肉が溶けるように柔らかくて果汁が多く,生食時に甘い果汁がしたたり落ちるようになるので水蜜桃と称されることが多い。利用の目的によって生食用と加工用(缶詰用)に分けることもあり,後者には果肉が不溶質の品種が用いられる。主要品種には布目早生(6月中・下旬成熟),砂子早生・倉方早生(6月下旬~7月上旬,花粉不稔性品種),白鳳(7月中・下旬),大久保(7月下旬),白桃(8月上・中旬)があり,そのほかに地方の特産的品種として早生桃山,都白鳳,浅間白桃,志賀白桃,勘七白桃など数多くの品種が栽培されている。また,黄肉の加工用品種には錦,ファースト・ゴールドなどが,ネクタリンでは,興津,秀峰などが育成,栽培されている。近年アメリカから導入されたジュセイトウのボナンザやシルバープロリフィックなどは家庭用果樹として注目されている。
繁殖は芽接ぎで,台木には同じ品種の実生を利用する共台や野生モモの実生を用いる。近年はセンチュウ抵抗性や矮性台木の開発が進められている。モモは自家結実性であるが,花粉不稔品種があるので,結実確保のため稔性花粉をもつ品種を受粉樹として混植するか,人工受粉を行う。摘果は20~30葉当り1果を残す。病害虫防除と外観の向上を目的に袋掛けを行うが,近年は無袋栽培が多い。剪定(せんてい)は休眠期間中に行い,枝が側方に開いた形に仕立てる。縮葉病,黒星病,灰星病などの病害,シンクイムシ類,アブラムシ,コスカシバなどの害虫が加害,発生するので,適期に薬剤防除を行う。日本の主産地は岡山,山梨,福島,長野,和歌山,山形の各県である。
日本のモモは白肉品種が多く,主として生食に用いるが,シロップ漬缶詰,ネクター,ジャムなどの加工原料にも用いられる。缶桃と称される黄肉の品種は,加工用(缶詰用)品種であるが,ネクターやジャムなどにも用いられる。
執筆者:志村 勲
古くから栽植されていたモモに,花色の濃い品種や重弁などの花形の変化した品種が多数作出されたのは,江戸時代である。《花壇綱目》(1681)には9品種が記録されていて,このころより観賞用の花木としてのハナモモの育成が盛んになったらしい。現在でも八重咲きで白に赤の絞りがはいる源平,早咲きで濃赤色の寒緋(かんひ),濃桃色でキクに似た八重咲きの菊桃(きくもも),白色の寒白(かんぱく)などの花変りのほかに,しだれになったものや,小型で開花する一才物の一才桃など多くの品種が残されている。ハナモモは,果実のできるものでも熟期が遅く,小さくて食用には適さない。
執筆者:堀田 満
《尚書》に,殷を亡ぼしたあと周の武王は,牛を桃林に放って軍備撤廃を示したとあり,また《詩経》のいくつかの篇にも桃がうたわれて,古くより桃は人々に親しい果樹であったが,また単に食用に供するだけにとどまらぬ,象徴的な意味あいを強く帯びたものでもあった。《詩経》桃夭(とうよう)の詩は,桃の花や実をうたって結婚をことほぐ歌謡であるが,桃が多くの子(み)をならせることにあやかり,結婚した女性も多産であるようにとの類感呪術(じゆじゆつ)的な心情を基礎にしたものであった。桃などの果実を用いて,とくに女性が男性に恋情を伝えるという《詩経》以来のちのちまでの風習(例えば美男の潘岳が街に出ると,女性たちが彼に果物を投げたという)も,多産をめぐる呪術の展開した形態であろう。桃のほか,そうした風習に結びつく李(すもも),棗(なつめ),石榴(ざくろ)などがいずれも多子を特徴とすることが,この推測を助ける。
多子という特徴は,より根本的にいえば,桃が強い生命力をもつということになろう。その生命力は,早くは桃に魔よけの力があるという形で表現され,時代を下っては仙果として桃が文芸や造形美術の中に出現することになる。桃の枝や棒を死のけがれを払うために用いるという記事は《左伝》《周礼》《礼記》などに見える。漢代には桃の木で作った人形を新年の門口に懸けて邪気を払うという風習が盛んになり,のちには必ずしも桃の木に限らぬが〈桃符〉と呼ばれるお札が正月の門口に貼られた。桃を仙果だとし,それを食べることにより長生が得られるという伝承は,南北朝以降,道教的な色彩の強い文芸の中に多く出現する。《漢武故事》や《漢武帝内伝》などがそうした中でも早いもので,漢の宮廷を訪れた西王母が武帝に3000年に1度だけ実を結ぶ桃の実を与えて食べさせる。このように桃はとくに西王母との結びつきが強く,《西遊記》で孫悟空がめちゃくちゃにする蟠桃会(ばんとうえ)も西王母が主宰するものであった。このような桃の持つ超越的な生命力付与の能力は,それが現実の果樹であることを超え,世界樹としての桃にその原形があると考えられたことによるであろう。
世界樹としての桃の伝承はおそらく古くまでさかのぼるのであろうが,文献的には漢代以降の記録に見える。例えば世界の東南の果てに桃都山があり,そこには枝の間隔が3000里もある桃都樹が生えているとされる。あるいは東海中の度朔山には3000里に蟠(わだかま)る桃の大樹(蟠桃とも呼ばれる)があり,その枝の東北部分のすきまが門になっていて,万鬼が出入りする(すなわち鬼門)。その門に神荼(しんと)・鬱塁(うつるい)の二神がいて悪鬼の侵入を防ぐが,それが上述の門口に桃の人形を懸ける風習の起源になったと説明される。また初期の道教経典に,天地の中央の玉京山に高さ390万億里の桃の木が生えるとあるのも,世界樹としての桃である。世界樹は宇宙の軸として現世と超越的な世界とを結ぶ機能をもつが,陶潜(淵明)〈桃花源記〉に,桃の咲き乱れる中を通って別天地(桃源郷)を訪れたとあるのも,桃が異世界との通路となるという神話的な思考を反映したものであろう。
執筆者:小南 一郎 隋代以前に中国では失われていた《如意方》という医書には,〈美色細腰にする術〉として,3樹の桃花を陰干しにして篩(ふるい)にかけ,食前に1日3回服用する処方があり,宋斉の釈僧,深(じん)は,これを酒で服用する処方を残している。また,5~6世紀の陶弘景が著した《千金翼方》には,東に向かって伸びた枝を日の出前に採り,3寸の木人をつくり,着物を着せて身につけていると物忘れをしないという呪術があり,三尸(さんし)を除く方法でも盛んに桃が使われている。
執筆者:槙 佐知子
桃は奈良時代初頭に渡来したと考えられ,ケモモと称されていた。それまで〈モモ〉と呼ばれたのは楊桃(やまもも)であったが,のちには単に〈モモ〉といえば桃をさすようになった。しかし桃が魔よけの力をもつとする中国の思想は,実際に桃が渡来する以前に日本に伝わっていたとされ,記紀には伊弉諾(いざなき)尊が黄泉国(よみのくに)から逃げ帰った際に,桃の樹下に隠れ,桃の実を投げて黄泉軍(よもついくさ)を撃退させたとある。平安時代になると桃も栽培され,《延喜式》には12月晦日の宮中の追儺(ついな)には,陰陽寮から桃の杖(つえ)と弓,葦矢(あしや)が配られ,疫鬼を駆逐したとあり,また正月の卯杖にも桃が使われたとある。桃の弓は近年でも神社の神事で使われることがあり,千住の飛島神社では4月8日の花祭に桃の木で木札を作り配ったという。桃が魔よけの力をもつのは,日本ではその形が女陰に似ているとか,桃は兆の字の如く多産の象徴であるとか,桃(とう)が逃(とう)や刀(とう)の語音に通じ魔を払う力があるからとかいわれる。また3月3日を桃の節供といい,桃の花を飾ったり,魔よけに桃酒を飲む風がある。この桃酒は毒を下し,病を払って,安産するともいう。三月節供と桃との結びつきはすでに平安時代に見られ,5月の蓬(よもぎ)・菖蒲(しようぶ),9月の菊と同様に,桃の呪力で病魔や災厄を払おうとしたのであろう。五島列島の福江島では厄払いの〈串のだんご〉を桃の木にさしたという。そのほか,鬼門に桃を植えるとよいとか,大根畑に桃の木をさすと虫がつかないともいい,また桃の木を歯にあてて虫歯よけのまじないにしたり,桃の葉を入れた湯に入って,あせもを治したりする。青森県下北地方では,イタコが口寄せやオシラ遊びをするときに桃の木を飾るので,ふだんは死霊がくるといって家に飾るのを忌んでいる。屋敷のまわりに桃を植えると,早死するとか病人が絶えないといって嫌ったり,八朔(はつさく)の桃祭に桃を食べるとうじ(蛆)になるといった俗信もあるが,それだけ桃が神聖視されていることを示しているといえよう。
執筆者:飯島 吉晴
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…別名,バンドリ,モモ。齧歯(げつし)目リス科モモンガ属Pteromysに属する小型の滑空する樹上生哺乳類の総称。…
…前者はさらにひざの上下で大腿と下腿に分けられる。大腿は俗にいう〈もも〉で,その上半はひじょうに太いので〈ふともも〉,その内側を〈うちもも〉という。下腿は日本固有の言葉では〈はぎ〉または〈すね〉という。…
…各種の災厄をよけ,幸運をもたらすと信じられている物体のことで,呪符ともいう。現代の日本でみられる例には,自動車や身につける交通安全や学業成就などの〈御守(おまもり)〉や家の柱・門などにはり付ける〈御札(おふだ)〉,客商売の家や店に置く〈招き猫〉などがある。災いを未然に避ける予防的な護符amuletと,すでに被っている災厄を除き福を招く積極的な呪符talismanを区別する学者もいるが,両者の区別は必ずしも明確でなく,両者の意味をともに含むものも多い。…
…例えば,日本古典にウメが初登場するのは《懐風藻》においてであるが,これは中国の類書にみえる詩の表現を換骨奪胎して作りあげたものでしかなく,むしろ,このような中国の類書を下敷きにした作詩法をつうじて〈花の見かた〉そのものを学習したというのが真実相であろう。 また,モモが幽冥界の鬼を追っ払うほどの呪力(じゆりよく)をもつとされたり(《古事記》上巻),ハチスの花が美女および恋愛を連想させたり(《古事記》下巻),キクが宮廷特権階級の地位保全を約束するユートピアの花として信仰されたり(《懐風藻》長屋王作品ほか),ヤナギの枝が死者との交霊や農業予祝儀礼のための祭祀用具に用いられたり(《万葉集》),タケが呪具=祭具として用いられたほか,皇子・大宮人の枕詞として使われたりする(《万葉集》)。これらには,いちいち確実な典拠が中国古典に載っている。…
…ドクゼリに含まれるシクトキシンも同様の作用を発揮する。バラ科のアンズ,ウメ,モモなどの種子はアミグダリン,マメ科のライマメ,イネ科植物などはリナマリンなどの青酸配糖体を含有し,腸内細菌の働きで青酸を遊離する結果,チトクロム酸化酵素の活性を阻害し呼吸を止めてしまう。 以上のような有毒植物に対しワラビのプタキロサイドやソテツのサイカシンなどにはいずれも,長期の摂取による発癌性が認められている。…
※「モモ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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