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ユリアヌス ユリアヌスJulianus, Flavius Claudius

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ユリアヌス
ユリアヌス
Julianus, Flavius Claudius

[生]331/332頃.コンスタンチノープル
[没]363.6.26. クテシフォン
ローマ皇帝 (在位 361~363) 。「背教者ユリアヌス」として知られる。コンスタンチヌス1世 (大帝) の甥。父は政争で殺され,従兄のコンスタンチウス2世の治世中も不遇のうちに東方で過した。

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ユリアヌス
ユリアヌス
Julianus, Paulus Salvius

[生]100頃
[没]169
古典盛期のローマ法学を代表する法学者。属州アフリカに生れながら,その学識によってハドリアヌス帝の信頼を得,高級官僚を歴任。またマルクス・アウレリウス帝まで3代の皇帝の顧問会の顧問官を歴任した。

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デジタル大辞泉の解説

ユリアヌス(Flavius Claudius Julianus)

[332~363]古代ローマ皇帝。在位361~363。コンスタンティヌス1世の甥(おい)。皇帝就任後、キリスト教を捨ててギリシャ・ローマ神への信仰を告白し、背教者とよばれた。ペルシア遠征で戦傷死。

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百科事典マイペディアの解説

ユリアヌス

ローマ皇帝(在位361年―363年)。コンスタンティヌス1世の甥(おい)。伯父のキリスト教公認後に新プラトン主義哲学の研究やミトラス教に近づき,皇帝になるとキリスト教を圧迫,著作によっても〈異教〉の組織化を図った。
→関連項目バシレイオス

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世界大百科事典 第2版の解説

ユリアヌス【Flavius Claudius Julianus】

331‐363
ローマ皇帝。在位361‐363年。彼の伯父コンスタンティヌス1世のキリスト教公認後,キリスト教より転向して異教の復興に努めたので,後代〈背教者Apostata〉と呼ばれた。首都コンスタンティノポリスに生まれ,生後まもなく母と死別,さらに338年,従兄コンスタンティウス2世の策謀による宮廷革命で父や一族を失い,年少の異母兄ガルスと彼だけが助命された。孤独不遇な青少年期にも古典的教養を修得し,新プラトン主義哲学やミトラス教の密儀に近づき,エフェソスマクシムスの魔術に参入し,〈背教〉への道を踏み出したが,なおキリスト者を装っていた。

ユリアヌス【Publius Salvius Julianus】

100ころ‐169ころ
ローマ法古典期(元首政期)盛期の代表的法学者。北アフリカの出身で,コンスル(148)はじめいくつかの属州長官などの要職を歴任し,ハドリアヌス帝およびアントニヌス・ピウス帝の顧問会に列せられ,また永久告示録の編集を行ったことが知られる。その優れた学識,豊かな創造性,的確な判断力により多くの問題に適切な解決を付与し,ローマ法の形成発展に多大の貢献をなし,今日ではローマ法学は彼の活動により頂点に達したと評価されている。

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大辞林 第三版の解説

ユリアヌス【Flavius Claudius Julianus】

332頃~363) ローマ帝国皇帝(在位361~363)。コンスタンティヌス大帝の甥おい。聖書と新プラトン主義に精通、キリスト教よりもギリシャ古典と伝統的宗教、ことに動物奉献を愛好。即位後、公然とキリスト教を批判して異教文化復興を試み、エルサレムにユダヤ教神殿を再建しようとしたため背教者と呼ばれた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ユリアヌス
ゆりあぬす
Flavius Claudius Julianus
(332―363)

ローマ皇帝(在位361~363)。「背教者」として知られる。コンスタンティヌス大帝の甥(おい)。父は一族内訌(ないこう)のため殺され、幼時は兄ガルスConstantius Gallus(325/326―354)とともにカッパドキアに幽閉された。アリウス派のキリスト教教育を受けたが、早くより宦官(かんがん)マルドニオスMardoniusにギリシア・ラテンの古典を学び、ギリシアの神々に親しみを覚え、また修辞学者リバニオスLibanios(314ころ―393ころ)の教えを受けて新プラトン主義哲学に傾いていった。355年コンスタンティウス2世から副帝に抜擢(ばってき)されてガリア、ブリタニアに赴き、統治者としての才能を発揮、兵士にも慕われた。皇帝が突然、彼とその軍団とに東方への転戦を命じるや、兵士はこれに反抗してユリアヌスを皇帝に推戴(すいたい)した。東方に向かったユリアヌスを迎撃しようとしたコンスタンティウスが急死して、彼は単独支配者となった。彼はただちにキリスト教信仰を捨てて、ギリシア・ローマ神への信仰を告白し、神々の神殿を再建し、祭儀の復興を命じた。キリスト教に倣って祭司団を属州・都市単位に組織化し、貧民救済をも行わせた。キリスト教徒を弾圧することはしなかったが、国家によるキリスト教への援助を取りやめ、聖職者の特権を廃止し、教徒の学者が古典を教えることを禁じた。一般政策では節倹と国民の経済的負担減少を旨とし、駅逓(えきてい)負担金を減らし、都市上層民を援助した。しかし神託伺いと祭儀には自ら熱中し、ことに東方系の太陽神ミトラス神への牡牛(おうし)のいけにえの儀式を盛んに行うなどの一面があった。キリスト教徒との論争の必要からギリシア語で数多くの著述を残した。そのなかでは、『反キリスト教論』、『ミソポゴン』、マルクス・アウレリウスをたたえた『饗宴(きょうえん)』が有名で、書簡も多数現存し、自分自身の生い立ちを綴(つづ)ったものもある。
 統治後まもなく、東方のペルシア帝国の侵入を抑えるための遠征を準備したが、おりしもアンティオキア滞在中、ダフネに建設中のアポロン神殿が焼失し、飢饉(ききん)も生じて、キリスト教徒からは圧迫の罰だとする非難の声があがった。しかし363年5月、東方に進発。このとき従軍した歴史家アンミアヌス・マルケリヌスが、この遠征の経過を詳細に記している。ユリアヌスは困難な行軍ののち、クテシフォン近郊でペルシア軍を一時は破るが、そのあと友軍との合流を妨げられ、ついに矢を射られて重傷を負い、陣中で没した。死に臨んで「ガリラヤ人(キリストのこと)よ、お前の勝ちだ」と叫んだとキリスト教史料は伝えている。帝位を継いだヨウィアヌスFlavius Jovianus(在位363~364)、次のウァレンティニアヌス1世によって、キリスト教はふたたび手厚い保護を与えられることになった。[松本宣郎]

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世界大百科事典内のユリアヌスの言及

【ローマ】より

… コンスタンティヌス1世が置いた新しい帝国の構造の基本は,4世紀を通じて変わらなかった。彼の死後起こった内乱を克服して帝国を再統一したコンスタンティウス2世(在位324‐361)の死後,ユリアヌス(在位361‐363)が親異教,反キリスト教,再自由化の反動政策をとったが,彼のペルシア戦線での戦死で基本線を変えるに至らなかった。この時期の主要な対外問題はササン朝であった。…

【ローマ法】より

…法を〈善と衡平の術〉と定義したケルススPublius Juventius Celsus(129年2度目の執政官。その著作に《法学大全》39巻がある),ユリアヌスPaulus Salvius Julianus(148年執政官)がとくに有名である。これとは別に,法を初心者のために簡易に叙述する試みが2世紀半ばにポンポニウスSextus Pomponiusおよびガイウス(両人ともその生涯は不詳で,いずれも官職に就任せず,解答権を有せず,法学教師にとどまったものと推測されている)によりなされた。…

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