「哲学」を意味する語フィロソフィアーphilosophiaがもとは「愛知」を意味するギリシア語であったように、ヨーロッパ哲学は、紀元前6世紀から紀元後6世紀までギリシア本土を中心とする地中海の沿岸諸域に展開された古代ギリシア哲学にその淵源(えんげん)をもっている。ギリシア文明に先だつエジプトやバビロニアの文明において農耕、航海、建築などの技術はすでに高度の発展を遂げていたが、技術の成立する構造・仕組みを尋ね、これを成り立たしめているもっとも単純な要素stoicheion・原理archēから理解しようとしたのはギリシア人であった。ここに測量術は幾何学geometriaとなり、占星術は天文学astronomiaとなって、いろいろの学問が成立した。これは、事物をすぐに利用しようとする実用の態度ではなく、事物を事物がそれ自身でもっている形と成り立ちにおいて眺めることを楽しむ観照(テオーリアーtheōriā)の態度によって生まれることであり、ここにギリシア人のロゴスlogos的な態度がある。
事物のそれ自身の真実(アレーテイアalētheia)の姿を尋ねる、このテオーリアーの態度によって、およそ存在する限りのすべてのものについて、第一の原理を尋ねていく哲学(愛知)の道が生まれた。
ギリシア哲学の歴史は、前古典期、古典期、後期古代の3期に分けられるが、プラトン、アリストテレス、プロティノスを除いて、この時代の哲学者の主要な著作はほとんど失われているため、後代の伝承に基づいて再構成された資料が多い。
[加藤信朗]
ギリシアにおける哲学的思索は、先進文明国であるアジアの諸国との接触が密接であった小アジアのイオニア植民市において、前6世紀のころに始まった。この時代の哲学者は、存在する事物の原理を、生成し消滅する存在者がそこから成り立っている第一の原理に求め、これを自然(ギリシア語でフィシスphysis、ラテン語でナトゥラnatura)とよんだ。自然とは、生成する事物がそのように生成するものとして、われわれの目の前にありありと現れている場合に、その「現れ」としての存在がそれに基づいて成り立っている、事物の「生まれ」であり「成り立ち」である。これによって事物は、われわれに隠された神秘な由来に基づいて、「神々からのもの」として理解されること(神学的・神秘的説明)をやめ、われわれにとって明白な存在においてその根拠を開示されるもの(哲学的・合理的説明)となった。タレス(前624ころ―前546ころ)はこの万物の「成り立ち」である自然を「水」であるとし、アナクシマンドロス(前610ころ―前546ころ)は「無限なもの」、アナクシメネス(前585ころ―前528ころ)は「空気」とした。これらは、万物がそこから生まれ出るという意味で万物の「生まれ」なのであった。
これらの人々はミレトスの人なので、ミレトス派とよばれる。ピタゴラス派では、万物の「成り立ち」は事物を構成する形式的な原理である数に求められる。世界は相反する諸性質の間に生まれる数的な調和(=比例、ロゴス)である。ヘラクレイトスは、生成し消滅する存在者をその生成し消滅する過程の全体においてとらえようとした。それゆえ、存在者を成り立たせるものは同時にその反対の非存在でもあり、世界は相拮抗(きっこう)する相反者の間に成り立つ動的な調和としてとらえられる。これが世界の「ロゴス(ことば、構造)」である。
エレアのパルメニデス(前515ころ―前445ころ)は、これまでの哲学者のように存在を感覚において現象するものとして把握するのをやめ、感覚的な現象の背後にその根拠として不変不動な存在が理性に対して示現していることを明らかにした。これこそが存在の真実性であり、感覚的現象は虚像にすぎない。ここに、感覚に現象する生成・消滅する事物の「成り立ち」としての「自然」を求めた最初の哲学者たち、すなわち自然学者(フィシオロゴイphysiologoi)とよばれる人々の思索は頓挫(とんざ)し、哲学は新たな端緒を求める。
パルメニデス以後、ギリシアの哲学は、(1)パルメニデスの論理を追究し、運動の存在を否定した弁証論者(エレアのゼノン)、(2)パルメニデスに従い、根元存在の不変性を認めたうえで、これを多元化することによって、その相互関係の変化によって自然世界の多様性を救おうとした多元論者(エンペドクレス、アナクサゴラスたち。デモクリトスの原子論)、(3)自然学の伝統とは関係なく、ことばの機能を説得(魂の誘導)に置く弁論術の伝統に基づき、すべてのことばを人間存在に関係づけて理解し用いたソフィスト(プロタゴラス、ゴルギアス)、の3派に分かれ、低迷を続けた。
[加藤信朗]
ギリシア哲学の新しい端緒はソクラテス(前469―前399)によって置かれた。ソクラテスは徳の問題を取り上げ、人間が善くなるのは何によってかを問い、ここに哲学の問題は、自然から人間と行為の根拠の問題に移る。ソクラテスは、このことを問うことに人間にとってもっともたいせつなことがあると考え、同じ市の人のだれかれとなく、行き会った人ごとにこれを尋ねた。この問いの行き着く帰結は、いつも、問われている当の人も、問うているソクラテスも、その答えを知らないということであった。しかし、人間が自分にとってもっともたいせつなこと(善)をまだ知らないということを悟り(無知の知)、これを尋ねることのうちに、人間にとってもっとも善いことがあるとソクラテスは知り、この探求を愛知(フィロソフィアー、哲学)とよんだ。それは、人間が自己を根拠づけている根拠へと、これをまだ知らないという無知の自覚を介して、向き直っていく魂の転回の道であった。
ソクラテスの弟子プラトン(前427?―前347)は、魂の転回によって、人が魂の目をもって内に見うるものにこそ真実在があると考え、これをイデアideaとよんだ。これに反して、自己の外に、感覚を通じて触れうるものは、いつも生まれてくるとともに、いつも過ぎ去っていくもの、流動変化を免れない影のようなものである。見える感覚界から見えないイデアの世界に転向していく魂の動きが愛知(哲学)であり、イデアはこの魂の転回を可能ならしめる根拠である。プラトンはこれを論理的な構想力と詩的な想像力を駆使して、全実在界の構成に関する壮大な存在論の体系と、この実在界を遍歴する魂に関する雄渾(ゆうこん)なミュートスmythosとして表現した。しかし、愛知は、本来、体系の構想を目ざさず、究極なるものの直観に向かう。この究極知は、愛知者が相互に交わす問答を通じて、愛知の長い道行きののち、各自の魂の内に、いわば飛び火のようにして得られ、保たれるものである。
プラトンの弟子アリストテレス(前384―前322)は、存在の現象が感覚的経験に与えられるとする点で、自然学者の立場に復帰した。そして、パルメニデスからプラトンまでの論理説を三段論法という形式として展開し、それを自然の諸領域における原理究明の方法論とした。こうして成立する学問が論証学である。今日の特殊科学の基礎はアリストテレスの置いたものである。イデアは外なる実在界の内に移し置かれ、自然物の運動を引き起こす原理としての事物の形相(エイドスeidos)となった。存在者は無形の素材にこの形相が働きかけて形成される。
しかし愛知者の究知は自然の個々の領域の認識にとどまらず、すべて存在するものを根拠づけている究極の原理の認識に向けられる。これは「神」であり、愛知者の愛知も、また人間のすべての行為も究極においてはこの神の観照に定位され、これに根拠づけられているものである。行為の究極根拠を問うソクラテスの問いは、アリストテレスではこのような形で答えられ、このような形で倫理学と政治学の体系が構成される。
[加藤信朗]
アレクサンドロス大王(在位前336~前323)によりギリシアの都市の自由が奪われてから、時代は、創造よりは整理、根源的思索よりは反省の時代に入った。生粋(きっすい)のギリシア人ではない人々が競ってギリシア風を模倣した時代には、古典時代の哲学者の著書の校訂、出版や注釈、解説が盛んに行われた。しかし保存はいつも反省を伴う。古典時代に展開された哲学の原理は、この時代に整理され、反省を加えられ、次代の思想を導く過渡的な形態をとった。
これは、まず、実践の原理の反省としてなされる。ポリスの枠の外に投げ出された人間は、各人、自己の内に生きるための原理を求めた。種々の哲学派は「生きる術」を教えて互いに覇を競った。ストア学派は、ソクラテスの善の教えを徹底することによって厳格主義の倫理をつくり、エピクロス(前342/341―前271/270)は唯物論を代表して快楽にのみ善を求めた。アカデメイア学派は確かな認識を断念して、ただ探究の内に生きることのなかにプラトンの教えの真髄をみた。これらはすべて古典哲学の原理の一面的な強調であるが、同時にそれは、生きる原理という観点からする古代哲学の反省でもあった。このことは、これらの諸派ののちに、プラトン哲学の再興として、古代哲学の最後を飾る新プラトン学派についても同じくいえることであり、ここでは古代哲学の諸原理が、究極知に至る魂の道行き、または救済という観点で反省、総合され、救済の知としてのキリスト教へと導く道となっている。
[加藤信朗]
『『岩波講座 哲学16 哲学の歴史Ⅰ』(1968・岩波書店)』▽『W. K. C. GuthrieA History of Greek Philosophy, vol.1~6 (1962~1981, Cambridge Univ. Press)』▽『A. H. ArmstrongThe Cambridge History of Later Greek and Early Medieval Philosophy (1967, Cambridge Univ. Press)』
〈すべては水である,水こそ万物の始原(アルケーarchē)である〉というおおづかみな哲学をうち立てたタレスに始まって,煩瑣(はんさ)とも言いたくなるほどの細かい分析を得意にしたアリストテレスにいたるまでの期間はほぼ250年にすぎない。この短い期間にギリシアには多数の哲学が生まれ,多数の個性的な哲学者が輩出した。一つ一つの哲学はどれもそれぞれユニークであって,その多彩さに人は目くるめく思いに打たれるかもしれない。アリストテレスにとどまらず,さらにギリシア哲学の展開の跡をたどっていけば,最後にプロクロスに行き当たることになる。プロティノスの新プラトン主義の哲学を整理し体系化したこの哲学者の没年は後485年だが,この哲学の究極の原理,始原は言うまでもなく〈一者(ト・ヘンto hen)〉であり,その一者から比喩的に言えばいっさいが流出し,いっさいはまたその一者に帰る。超感覚的な一者はいわば光のような巨大なエネルギー源なのである。ここで気がつくことは前6世紀,〈水〉という一者から始まったギリシア哲学が,ほぼ1000年後に少なくとも形式的には,同じ一者に帰ったという事態であり,この点にギリシア哲学全体の一つの特徴を理解する鍵があるように思われる。
たしかにタレスの〈水〉やアナクシマンドロスの〈ト・アペイロンto apeiron〉,アナクシメネスの〈空気〉を中心にした単純な一元論の哲学と,例えばエンペドクレスやアナクサゴラスの多元論,あるいはデモクリトスの原子論との間には大きな差異があるように見える。けれどもエンペドクレスの四元素の始原の状態,すなわち宇宙の第1期における状態は混然一体をなした,字義どおりの一者であったし,つづく時期に生ずる個々のものもいずれはもとの一者の状態に帰るしかけになっている。アナクサゴラスにしても質的に異なる無数の万物の〈種子〉を原理としたが,やはり宇宙成立以前の混沌無差別の一者の状態を想定したし,しかも成立した個々のものはあらゆる種類の種子をその内に含んでおり,そうした意味では元来の一者的状態を背負いこんでいるのである。デモクリトスの原子論においても,無数の原子間には形態やその他の点における相違はあるにしても,それらの原子は元来,質的に無差別同一である。したがって原子の合成物である個々のものはそれぞれに異なるにしても,構成要素である原子の次元で考えれば,相違がなく,一者の状態,言いかえれば個々のものは同一という状態が出現する。ヘラクレイトスは〈万物は一つ〉と言ったが,原子論においても万物は一つなのである。
ところで普通の哲学史では,ソクラテス以前の哲学とソクラテス以後の哲学との間に一線を引き,ソクラテスが魂を中心にした人間の哲学を開始したが,それに比べると彼以前の哲学は自然哲学であると言われる場合がある。たしかにそうした哲学史的区分にも意味がないわけではないが,過度の単純化は事の真相を誤らせる。例えばデモクリトスには倫理関係の著作があり,その断片が多数現存している。〈幸と不幸とは魂に依存する〉という彼の発言はソクラテスの立場を思わせるほどだが,原子論者の彼は魂をもっとも動きやすい火的原子の集塊とみなした。そのような魂は暴飲暴食や過度な性行為の追求によって激動する。そしてこれこそ魂の混乱にほかならず,したがって魂の平安を,つまり幸福を得るためには節度を守る必要があるのである。彼の倫理学は,デルフォイの神の勧める〈度を過ごすなかれ〉の立場を原子論的に基礎づけたと言える。
しかし,ソクラテス以前の哲学者たちの人間に関する発言の中でも,今の場合,もっとも重視すべきはエンペドクレスの次の言葉である。〈われらは土によりて土を,水によりて水を,空気によりて輝ける空気を,また火によりて破壊的なる火を,愛によりて愛を,おぞましき憎しみによりて憎しみを見るなり〉。人間の特徴は今も昔も知に求められた。ギリシア哲学の場合もその点においては変わらない。だが,だからといって人間だけを全自然の中における例外者,全自然からはみだした特権の所有者とは考えなかったようである。エンペドクレスの上の言葉に即して言えば,人間も他のものと同様に地・水・火・風の四大元素と愛憎の二つの力とからなる合成物なのである。エンペドクレスによると感覚したり,知ったりする人間の魂もこれら六つの要素からできているからこそ,人間の外にある六つのそれぞれの要素や,これらの要素からなる合成体を感覚し,知ることができるのである。要するに知は人間と他のものとの間に成立する構造の類似性を基礎にして成立することになるのだが,この考えを徹底すれば,人間以外の個々のものも人間に類似しているのだから,人間と同様に知る機能を所有していることになるだろう。エンペドクレスははっきりと言いきっている。〈なんとなればなんじ知るべし,いっさいが知力をそなえ,思考を分け持つことを〉。もし人間と他のものとの間に知力においての相違があるとすれば強弱の度合にすぎないだろう。
こうした一種の知識論をアリストテレスは〈類似のものは類似のものによって知られる〉と巧みに要約した。だがアリストテレスはこの定式をエンペドクレスのみに限らず,ひろく先行哲学者たち全体に適用した。彼に言わせると,ほかならぬプラトンも例外ではなかった。プラトンの《ティマイオス》では,人間の知的魂も知られるものの方もともに同様な〈構成要素〉,あるいは〈究極的な原理〉からできていると見ることができる。両者ともに生成変化する要素と生成変化しないイデア的要素との合成からできているのである。アリストテレス的に言えば,人間はイデアによってイデアを見,生成変化するものによって生成変化するものを見るということになるだろうが,プラトンの場合にも,類似性によって結合された一つの緊密な全体が成立していることは疑うことができない。その一つの全体とは《ティマイオス》における宇宙である。その宇宙は渾沌一体というような原始風景を示すものではないが,人間をも含んだ秩序正しい区分のある一つの統一体,すなわちコスモスkosmosである。
さらにまたアリストテレスは,人間が石を見たり,知ったりするのは魂の中に石ころがあるためなのかとエンペドクレスを揶揄(やゆ)している。彼は宇宙の成り立ちを発生論的に考えなかった,ほとんどただ一人の例外的なギリシアの哲学者である(彼以外に考えられるとすればヘラクレイトスのみである)。天体は永遠の昔から同じ天体であり,ある種の生物である。地上の生物もそれぞれ昔から同じ生物である。彼はいわゆる種の永遠の持続を主張した生物学者である。彼の構想した宇宙では,ものの相違が鮮やかすぎるほど鮮やかであるかのように思われる。だがそれにもかかわらず,彼自身も実はエンペドクレス的な定式にしたがっている。彼自身に言わせても,人間の魂は〈形相の座,場所〉なのである。つまり人間の魂にはあらゆる形相がそなわっており,そういう意味で人間は形相をもったいっさいのものに好都合に対応できる装置をそなえた生物であり,他のあらゆるものに類似した生物なのである。人間が他のものを知る,すなわち他のものの形相を知るのは,こうした対応,類似を基礎にしているからとしか考えられまい。また彼によれば,それぞれの天体は〈不動の動者〉である永遠なる神,永遠の思惟活動を持続するヌースnousである神にあこがれて永遠の運動を続けている。地上の生物もやはり神的な永遠にあこがれ,自分と同種の個体を生みおとしながら永遠性の実現にいそしむ。人間はとくに他のことにわずらわされることなく思惟活動に集中するとき,もっとも人間らしい生活を実現することができる。その活動こそヌースである神にもっとも近い活動なのである。アリストテレスの哲学をこのように概観すると,ここにも類似性を基礎にして成立している一つの全体,人間をも含めた一つの統一体であるコスモスを確実に発見することができる。
以上のように見てくると,ギリシア哲学のほとんどあらゆる場面に〈一なるもの〉が現れていることになる。もちろんアリストテレスも言うように,一という語にはさまざまの意味があり,したがって一なるもの,一つの全体,一つの宇宙と言っても,それぞれの哲学において異なった姿を見せているのだが,ギリシア哲学のこの一への志向はどう説明したらよいのだろうか。例えばヘシオドスの神話的な宇宙論では,そもそもの初めに〈カオス〉があったとされている。そしてカオスからまず大地母神が生まれてくる次第になっているが,もしカオスという語のもとに〈カスケインchaskein〉(〈あくびをする〉の意)という動詞を想定することができれば,〈初めにあくびありき〉,言いかえれば〈初めに分裂ありき〉ということになるだろう。そしてこのことはまたさらにさかのぼった一なるものの想定を促すことになるだろう。あるいはまたオルフェウス教の古い神話によると,宇宙は1個の卵から孵化(ふか)したことになっている。このような哲学以前の神話的な宇宙論を考慮すれば,一をたえず志向するギリシア哲学の宇宙論は,ある意味で哲学以前の神話的意識の継承であるとも言うことができる。もちろん,それは単なる継承ではなかった。あえて言えば,ギリシア哲学は神話意識を合理化し,神話を合理的な言葉で語るさまざまな試みであったのである。
→ギリシア科学
執筆者:斎藤 忍随
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