日本大百科全書(ニッポニカ) 「クラウディウス」の意味・わかりやすい解説
クラウディウス
くらうでぃうす
Matthias Claudius
(1740―1815)
ドイツの詩人。リューベック近くのラインフェルトに牧師の息子として生まれる。生涯を文壇の片隅に甘んじた。彼の詩作は自然、民衆、自己の内なる声を深い感受性で歌う。詩集『月はのぼりぬ』『子守歌』がよく知られている。雑誌『ウァンツベック通信』を1771年から75年にかけて発行する。そのなかには、エンゲルベルト・ケンペルの『江戸参府紀行』からヒントを得たと思われるアスムスなる人物の『日本の皇帝にお会いした記録』という江戸初期の日本を扱ったユーモラスな小品が載っている。シューベルトによって歌曲に作曲された詩『死と乙女』などが有名である。
[金森誠也]
クラウディウス(2世)
くらうでぃうす
Claudius Ⅱ
Marcus Aurelius Claudius Gothicus
(219―270)
ローマ皇帝(在位268~270)。ダルマチアに生まれる。ガリエヌス帝の治世に高級将校となり、同帝の暗殺後、皇帝に推挙された。北イタリアに侵入したアラマン人を撃退したが、分離独立していたガリア帝国を制圧することはできなかった。それにもかかわらず、彼はドナウ川地域に侵攻するゴート人を駆逐して屈服させ、多数のゴート人を兵士や小作農民として迎え入れた功績のために、「ゴーティクス」(ゴート人征服者の意)の異名でよばれている。ドナウ地方の秩序回復に尽力中、疫病にかかって没した。元老院との関係が比較的良好であったうえに、のちにコンスタンティヌス大帝が彼の後裔(こうえい)を名のったことから、彼の名声は死後も高まった。
[本村凌二]
クラウディウス(1世)
くらうでぃうす
Claudius Ⅰ
Tiberius Claudius Drusus Nero Germanicus
(前10―後54)
ローマ皇帝(在位41~54)。ティベリウス帝の弟ドルススと小アントニアとの末子。教養豊かであったが、病弱のため、赫々(かっかく)たる軍功をたてた兄ゲルマニクスの陰に隠れて目だたなかった。甥(おい)カリグラ帝の暗殺後、近衛(このえ)軍に推挙され、51歳で皇帝に即位。堅実な政治を行い、ブリタニア、トラキア、アフリカを属州とした。しかし、しだいに側近として権力を握った解放奴隷や皇后に動かされるようになった。3番目の妃メッサリナを、その愛人とともに自分の暗殺を図ったとして処刑したが、次の妃アグリッピナ(小)によって、彼女の連れ子ネロを皇帝にするため、54年毒殺されたといわれる。
[島 創平]