翻訳|Junker
東部ドイツの地主貴族に対する呼称。この言葉は本来〈貴族の若い子弟〉を意味する中世高地ドイツ語junchërreに由来するが,19世紀前半から,東エルベ(エルベ川東部,すなわち東部ドイツ)の保守的貴族に対する軽蔑の意味をこめた呼び名として広く用いられた。
東エルベでは15~16世紀以来,農民の賦役労働を用いて輸出用穀物を栽培する大農場が栄え,これをグーツヘルシャフトといった。この農場所有者グーツヘルは封建領主として農民に対し警察権,裁判権などの政治的支配権をふるった。彼らは18世紀にプロイセン王国の貴族身分の中核となり,絶対主義国家の官僚・常備軍で指導的地位を占めた。フランス革命とナポレオンの大陸制覇はプロイセンの絶対主義を揺るがし,これを機に19世紀初めプロイセン改革が実施された。このときグーツヘルシャフトでは農民が解放されて人格上の自由を得,また賦役その他の封建的負担も有償廃棄された(農民解放)。この改革を通じて,19世紀半ばまでに,グーツヘルシャフトは資本主義的なユンカー経営に変質し,またユンカーの政治的特権も,1848年裁判権が,72年警察権が廃止された。しかし農場での地主と労働者の関係には農奴制のなごりがつきまとい,またユンカーは東エルベの地方自治体に君臨しつづけた。
1866-71年のドイツ統一事業に対しユンカーは消極的であったが,この事業の推進者ビスマルクはユンカー出身の政治家で,彼がなしとげたプロイセンを中心とするドイツ帝国の建設は,ユンカーの政治的支配階級としての立場をむしろ強めた。ユンカーは宮廷や中央官庁,国防軍で強い勢力をもちつづけ,彼らの政党である〈保守党konservative Partei〉はプロイセンの保守勢力の中核となった。さらにユンカーの根強い身分意識と頑固な保守主義は新興の大ブルジョアの政治・社会意識にも影響を及ぼし,彼らを〈封建化〉させたといわれる。他方,多くは500~1000ha程度のユンカー農場の経営方法は概して時代遅れで,とくに19世紀末から穀物価格の下落が経営をいっそう苦しくした。穀物生産を主とするユンカー経営は政府の保護関税政策に頼るとともに,製糖業や火酒製造の副業に力を入れ,収入の増加に努めた。したがって工業化が進むとともにユンカーの経済的力は相対的に弱まり,この危機感が彼らの反動性をいっそう強めた。
第1次世界大戦とドイツ革命は帝政ドイツを崩壊に導き,ユンカーの政治的立場も弱まったが,ワイマール共和国では土地改革が行われなかったため,地主としてのユンカーの地位は引き続き維持された。またユンカーは右翼政党,国家人民党を支持し,共和国と民主主義に終始敵対しつづけた。1933年ナチス政権の成立にあたっても,一部重工業資本家と並んで,ユンカー政治家がヒトラーの政権獲得を助けた。しかし第三帝国で,旧タイプの支配階級であるユンカーは概して冷遇された。45年,第2次大戦の敗北とともに東部ドイツはソ連占領下に入り,徹底した土地改革が行われたので,大土地所有は解体され,階級としてのユンカーも消滅した。
執筆者:木谷 勤
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プロイセンの伝統的支配階級であった騎士領所有貴族の俗称。エルベ川以東の東部ドイツに領地をもち、そこにグーツヘルシャフトを発展させるとともに、18世紀以降軍隊と官僚の上層部を独占的に支配して政治的支配階級ともなった。19世紀初頭のプロイセン改革以後、領地経営は資本主義的な大農場経営(いわゆる「ユンカー経営」)に転換し、またグーツヘルシャフトに由来する身分特権も廃止されていくが、その後も地方はもとより中央の政・官界や軍部に勢力をもち続けた。政治的には保守主義の地盤となった社会層である。第二次世界大戦後、旧東ドイツの土地改革によって、その存立の基盤は完全に失われた。
なお、ユンカーの語源は、古高ドイツ語のjuncherroで、貴族の若衆を意味したが、のちには軍隊や宮廷の役職名にも用いられた。プロイセンでは、ユンカーは「田舎(いなか)貴族」として多く蔑称(べっしょう)に用いられたが、ビスマルクのように自らそれを誇称した者もいる。
[坂井榮八郎]
『ハンス・ローゼンベルク著、大野英二・川本和良・大月誠訳『ドイツ社会史の諸問題』(1978・未来社)』
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ドイツのエルベ川以東の地に多く存在した大地主貴族のことをいう。この地は元来ドイツ人の植民した所で大所領をもつ領主が多かったが,15世紀以降商業が発達すると領主は穀物商業により利益を得,周囲の農民の土地を合併して領地を拡大,グーツヘルシャフトを発展させた。またのちには領内に,てん菜や火酒などの工業をも経営した。このように有力な経済的地盤を持つユンカーは地方政治を掌握し,また18世紀以来プロイセン国家の上級官吏や軍人も独占した。この形勢は封建的領主支配が終わった19世紀においても変わらず,ドイツの主要政治家,軍人にはユンカー出身者の割合がきわめて大きかった。ヴァイマル共和国期においてその勢力は減じたが,なお有力な力をもち,ナチスの政権掌握にあずかって力があった。第二次世界大戦後はまったく消滅した。
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…しかし帝国宰相はたいていプロイセン首相を兼ね,帝国の行政もプロイセン行政に依存するところが多かった。さらに帝国とプロイセンを問わず,行政と軍隊の上層ではユンカー・貴族が勢力をふるいつづけた。このように強力で保守的な行政府に対し,立法府である帝国議会Reichstagは,普通選挙という民主的な基盤の上に立っていたが,その権限には種々制約が加えられ,また連邦参議院やプロイセン邦議会が並び立って,その役割の拡大を妨げていた。…
…ヨハンはさらに領土を広げる一方,国内ではフリードリヒ2世の貴族優遇政策を継承し,都市の地位をいっそう低下せしめた。
[ユンカーの台頭]
こうして都市が経済的にも政治的にも没落する反面,ユンカーと呼ばれる地方貴族の勢力がめざましく台頭し,16世紀には所領の農民から土地を収奪して農奴制的な直営地経営(グーツヘルシャフト)を発展させた。ユンカーは辺境伯の財政難に乗じて,領主裁判権や免税権など大きな特権を獲得し,領邦議会でも領邦行政でも力をふるうようになった。…
…ようやく〈大選帝侯〉フリードリヒ・ウィルヘルム(在位1640‐88)のとき,スウェーデン・ポーランド間の戦争(1655‐60)に乗じて,ブランデンブルクはポーランドからプロイセン公国における完全な主権を獲得し(1657),1660年のオリバOliva和約でこの主権はスウェーデン・ポーランド両国により承認された。 プロイセン公国でも,ブランデンブルクにおけると同様,16世紀以来ユンカー(地方貴族)の農奴制的な直営地経営(グーツヘルシャフト)が発展していた。しかし,ここではケーニヒスベルクをはじめとする自治都市の勢力も強く,ユンカーと並んで身分制国家の社会的基盤を形成する。…
※「ユンカー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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