翻訳|Weimar
ドイツ中部,チューリンゲン州の都市。人口5万9000(1991)。18世紀以来ドイツ自由主義精神の伝統的文化都市である。13世紀に都市となったが,1485年後ザクセン公領となり,1539年宗教改革を受け入れ,新しい宮殿も造られた。72年ザクセン・ワイマール公領の首都となり,1775年住民も6000を数えた。カール・アウグスト公(在位1758-1828)親政下(1775-1828),勃発したフランス革命の影響もあってドイツ自由主義文化の中心となる。75年以来ゲーテはこの公国の政務を担当し,1832年ここで没した。この時代に,シラー,ヘルダー,詩人のウィーラントなどがワイマールに集まってドイツのブルジョア的な宮廷文化の華を咲かせる。ゲーテの家は当時の典型的な貴族の住宅として国立博物館の形で保存されている。1825年建造の劇場はR.ワーグナーのオペラの初演と結びついて音楽史上黄金時代を示したが,1907年改築された。18年ドイツ革命で君主制が倒されると,険悪な状勢にあったベルリンを避けて19年1月国民議会がここに開かれ,8月11日ワイマール憲法が制定された。ブルジョア民主主義を象徴するワイマール共和国の時代には,社会民主党の重要な拠点として20年には労働者と市民がカップ一揆を追い出し,23年にはチューリンゲンに労働者の州政府をつくり出している。しかしこれはワイマール連合右派の武力により鎮圧され,またワイマール連合自体も33年ヒトラーが政権を取ってからはナチスに弾圧された。37年,北郊にブーヘンワルトBuchenwaldの強制収容所がつくられ,多くの戦争犠牲者を出したが,戦後はドイツ民主共和国(東ドイツ)の文化都市として再建された。
執筆者:進藤 牧郎
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ドイツ中部、チューリンゲン州の都市。1949~90年は旧東ドイツに属した。チューリンゲン盆地のほぼ中央、エッター山の南麓(なんろく)、イルム川に沿う標高240メートル地点にある。人口6万2400(2000)。1918年までザクセン・ワイマール・アイゼナハ公爵の宮殿都市であったため、多くの教育・文化施設がある。建築建設大学、リスト音楽大学、チューリンゲン国立図書館、チューリンゲン国立文庫、先史歴史博物館、ドイツ国民劇場、ゲーテ博物館、シラー館、リスト博物館、ニーチェ文庫などである。そのほかゲーテ協会、フランツ・リスト連盟、シェークスピア協会、ダンテ協会、各種の古典ドイツ文芸の研究機関や協会などがある。工業は農業機械、ケーブル、精密工具、電気機器などの製造が行われる。1919年2月、ここに招集された国民議会はベルサイユ条約を承認し、8月に共和国憲法(ワイマール憲法)を制定した。エッターベルク山上に、ナチスが設けた強制収容所ブーフェンワルトの記念碑が立っている。なお、この都市は1998年に「古典主義の都ワイマール」として世界遺産の文化遺産に登録されている(世界文化遺産)。
[佐々木博]
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…1919年,ドイツのワイマールに設立された美術工芸学校。25年デッサウに移り,33年ベルリンでナチスによって解散させられる。…
※「ワイマール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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