ロシアの思想家、詩人。モスクワの富裕な貴族の家庭の生まれ。ペテルブルグの幼年学校卒業後、ドイツのライプツィヒ大学に留学、自然科学、文学、医学などを修める。この時期にボルテール、ディドロなどフランスの啓蒙(けいもう)主義思想家の影響を受けた。帰国してからまず元老院、ついでフィンランド師団司令部に勤務、おりから起こったプガチョフの暴動に深い関心を寄せた。1775年にはいったん官職を退くが、1777年ふたたび商務省に入ってペテルブルグ税関に勤め、1790年には税関長になった。1780年代の中ごろからロシア社会思想史上不朽の古典『ペテルブルグからモスクワへの旅』の執筆にかかり、1790年春にこれを匿名で出版した。これは一旅行者の手記の形で、帝政下農民たちの悲惨な状態と専制政治の醜悪さ、たとえば1週間に6日間も地主の畑の賦役に駆り出される農民、地主父子のあまりの虐待と暴行に耐えかねて、その一家を殴り殺してしまった村人などの話を生き生きと描き出したもので、これを読んで驚愕(きょうがく)したエカチェリーナ2世は、ただちにこれを発禁にするとともに、著者を逮捕し、女帝立会いのもとに審理を行わせた。判決は死刑と出たが、エカチェリーナ2世は死一等を減じて10年のシベリア流刑を命じた。イルクーツクに近いイリムスクへの流刑中、哲学的な著作『人間、その死と不死について』を執筆し、観念論と唯物論的な思想を織り交ぜた独特の死生観を展開した。エカチェリーナの死後、アレクサンドルの治世になって首都に戻ることを許されたラジーシチェフは、皇帝(ツァーリ)の命で立法委員会に加わったが、まもなく自殺を遂げた。文学作品には頌詩(しょうし)『自由』(1783)、ライプツィヒ時代の友人を主人公とする自伝的な作品『F・V・ウシャコフ伝』(1787)、赦免後のものとして長詩『ボバー王子』(1798~1799)などがある。
[中村喜和]
『渋谷一郎訳『ペテルブルグからモスクワへの旅』(1958・東洋経済新報社)』
ロシアの社会思想家。ロシア解放思想の父とよばれる。貴族の出身。1766-71年ドイツのライプチヒ大学で主として法学を学び,留学中,ボルテール,ディドロなどの啓蒙思想の影響を強く受けた。帰国後,元老院などに勤務,90年にはペテルブルグの税関長となった。プガチョフの乱(1773-75)によって農民の窮状をつぶさに知り,しだいに体制の変革を目指すようになった。頌詩(しようし)《自由》(1783)はロシア最初の革命詩である。90年農奴制を激しく批判した《ペテルブルグよりモスクワへの旅》を自宅の印刷所で印刷,出版したが,ただちに発禁となり,彼も逮捕され,死刑を宣告された。のちに減刑され,10年間のシベリア流刑に処せられた。1801年ペテルブルグに戻ると,皇帝アレクサンドル1世の設置した立法委員会に参加,精力的に働いたが,やがてリベラルな改革を目指す彼は孤立し,02年服毒自殺した。主著《ペテルブルグよりモスクワへの旅》は,一旅行者の手記の形で,農奴制下の農民の悲惨な生活を描き,改革の必要を訴えたもので,ロシアの啓蒙思想を代表する著作である。自伝的小説に《F.V.ウシャコーフの生涯》(1788)がある。
執筆者:安井 亮平
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