フランスの啓蒙(けいもう)思想家ディドロの対話体の小説で、1762~72年執筆。起稿は、60年に上演されたパリソCharles Palissot de Montenoy(1730―1814)の喜劇『哲学者たち』Les Philosophesがきっかけとなったと考えられるが、作品に実在の同時代人への言及が多いため、ディドロの生前には刊行されなかった。この傑作が初めて日の目をみるのは、ドイツの文豪ゲーテが写本の一つに基づいて1805年にドイツ語訳してからである。ディドロの肉筆原稿が発見されたのは、実に1891年のことだった。
作品は、大作曲家ジャン・フィリップ・ラモーの甥でうだつのあがらぬ音楽家「彼」と、ディドロとおぼしき哲学者の「私」とが交わす会話がおもな内容の風変わりな小説である。「彼」は身ぶりを交えて、天才と凡才の問題、金満家の周辺に集う寄食者の生態、イタリア・オペラへの礼賛、悪の問題などを熱っぽく語る。これを迎え撃つ「私」の建設的回答も動揺しがちにならざるをえない。ヘーゲルが、両者の対話のうちに、誠実な意識と堕落した意識の対立をみたことは有名である。
[市川慎一]
『本田喜代治・平岡昇訳『ラモーの甥』(岩波文庫)』
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…ついで,18世紀フランス演劇の最高傑作に数えられる《この男,善人なのやら悪人なのやら》(1770‐84執筆,生前未刊)を書き,また俳優の演技は感動に頼るべきではなく,知性によって統御されるべきであるとする革新的理論を《俳優に関する逆説》(1769‐78)のなかで主張した。小説の分野では,《修道女》(1760‐82執筆,生前未刊),《ラモーの甥》(1761‐73執筆,生前未刊),《運命論者ジャックとその主人》(1772‐73執筆,74改訂,生前未刊)が生みだされる。そこでは,社会の周縁に位置する人物(修道院制度に反抗して脱走する女性,社会の脱落者ラモーの甥,召使ジャック)によって,既成の秩序は疑問のうちに投げ込まれ,転倒され,その混乱のなかからまったく新しい文学的宇宙が誕生する。…
…未完)が,ラモー生誕300年の1983年に新ラモー全集がフランスで企画された。 なおディドロの小説《ラモーの甥》のモデルは,彼の弟でオルガン奏者のクロードClaude R.(1690‐1761)の息子で音楽家のジャン・フランソアJean‐François(1716‐?)である。ラモーの3人の子はだれも音楽家にはならなかった。…
※「ラモーの甥」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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