リービヒ(読み)りーびひ(英語表記)Justus von Liebig

精選版 日本国語大辞典 「リービヒ」の意味・読み・例文・類語

リービヒ

  1. ( Justus Freiherr von Liebig ユストゥス=フライヘア=フォン━ ) ドイツの化学者。有機化合物の基本的研究から、その農業への応用をはかった。また、実験重視の研究法を化学者の養成に採り入れた。主著「化学通信」。(一八〇三‐七三

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「リービヒ」の意味・わかりやすい解説

リービヒ
りーびひ
Justus von Liebig
(1803―1873)

ドイツの化学者。ダルムシュタットで生薬(しょうやく)や染料の製造販売業を営む家に9人兄弟の第2子として生まれる。父の仕事場で幼時から化学実験に親しみ、町の図書館で化学書を読み、薬屋に徒弟奉公して、1820年ボン大学に入学。カストナーWilhelm Gottlob Kastner(1783―1857)教授に学び、師に従いエルランゲン大学に移り、1822年博士号を取得した。同年パリに留学、A・フォン・フンボルトの世話でゲイ・リュサックの研究室に入り、本格的な定量的実験化学を学び、1824年ふたたびフンボルトの世話で母国のギーセン大学助教授に就任、翌1825年教授となり、1852年ミュンヘン大学教授となった。

 リービヒは化学研究論文を200以上発表したが、その内容は(1)有機化合物の分析法の改良と多数の化合物の実験式の決定、(2)基の理論の実験による確立、(3)多数の新化合物の発見(クロロホルムクロラールアルデヒドなど)、(4)酸の水素説、(5)農業および動植物の生理化学的研究などに分類できる。

 幼いころにかんしゃく玉に興味をもって以来パリ留学中も雷酸塩を研究し、その組成を決定した(1824)。同じころ、同郷のウェーラーが発表したシアン酸塩の組成が同一であったことから論争になったが、1826年同一組成で異種化合物であることが確認され、(異性現象の発見)、これを機にウェーラーと生涯の親交を結び、化学構造に興味をもった。1831年、従来より速く確実な有機化合物の新定量分析法を発表した。リービヒの炭水素定量法、カリ球リービヒ冷却器などはいまも有名である。この新方法を使ってウェーラーと共同で研究し、1832年ベンゾイル基を発見、ついでアルコールとエーテルエチル基をもつことを明らかにし、ゲイ・リュサックのシアン基の考えを継いで基の理論を発展させた。さらに、ウェーラーと尿酸を研究、以後は生理化学分野に進んだ。

 1837年、苦扁桃(くへんとう)の成分アミグダリンが苦扁桃中の「酵母のような物質」エムルジンによって加水分解されることを発見したが、リービヒは、酵母は微生物でなく、発酵は分解状態にある物質の振動が糖に伝わっておこると考えた。のち1857年に発酵は微生物によっておこると発表したパスツールと激しく論争した。

 1840年『農業と生理学に応用した有機化学』を出版。このなかで、植物の栄養は従来の神秘的なフムス(動植物の腐敗物)でなくとも無機物でよいとし、植物体の炭素分は空気中の二酸化炭素、水素分は水、窒素分は空気中のアンモニア(のちに訂正)、灰分は土からくる、収穫するだけでは「略奪農業」になると、灰分を土に与える必要を述べ、史上初めてカリウムやリン酸塩の人工肥料をつくった。彼の考えは農業生産を飛躍的に高めるのに役だった。ついで1842年『動物化学』を出版。動物の栄養には炭水化物、脂肪、タンパク質が必要で、前二者は体内で熱に、タンパク質は体の素材になるとした(ビタミンの存在には気づかなかった)。

 彼は徒弟教育を排し化学教育の近代化を目ざし、1826年実験台数台の世界最初の学生実験室をつくり、1839年には本格的学生実験室をつくって世界各地から集まった学生を教育した。また研究交流のため論文誌『化学・薬学年報』Annalen der chemie und Pharmacieを創刊(1840)、この雑誌はいまもLiebigs Annalen der Chemieと改名して続いている。リービヒに学んだ化学者に、ドイツのW・ホフマン、ケクレ、イギリスのウィリアムソンフランクランド、フランスのジェラール(ゲルアルト)、ウュルツ、ロシアのジーニンらがおり、日本も幕末から明治初期にウィリアムソンやレーブなど彼の門下から直接に大きな恩恵を受けた。彼はまた『化学の辞典』(1837)をウェーラーらと編集出版、啓蒙(けいもう)を目的とした『化学通信』を新聞に連載し、のちに出版した(1844)。

[道家達將 2018年12月13日]

『山岡望著『化学史談2・7・8』(1958・内田老鶴圃新社)』『田中実著『化学者リービッヒ』(岩波新書)』『J. VolhardJustus von Liebig(1909, Leipzig)』『Günther BuggeDas Buch der grossen Chemiker Bd. Ⅱ(1930, Verlag Chemie, Weinheim)』

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改訂新版 世界大百科事典 「リービヒ」の意味・わかりやすい解説

リービヒ
Justus von Liebig
生没年:1803-73

ドイツの化学者。ダルムシュタット生れ。ボン大学およびエルランゲン大学でH.Y.カストナーに師事。1822年パリに出てソルボンヌ大学のL.J.テナールやJ.L.ゲイ・リュサックのもとで研究。24年帰国し,ギーセン大学助教授,25年に化学薬学教室を設立して教授となる。52年ミュンヘン大学に転じ,終生教授の地位にとどまる。

 1830年代までは有機化学の理論研究が中心で,従来の有機物元素分析法に改良を加え,操作を簡便かつ能率的にした。この分析法を駆使して,F.ウェーラーと共同でベンゾイル根の存在を指摘,有機化合物における根(基)radicalの理論を確立した。またラボアジエ以来の酸の酸素仮説を批判し,H.デービーの水素仮説を支持するとともに,多塩基性の酸の存在を指摘した。39年にはアミグダリン発酵の研究に基づいてJ.J.ベルセリウスの触媒力仮説に反対し,発酵作用を原子の機械的運動の伝達に帰した。

 40年代にはいると応用方面に関心を移し,当時農業界で一般的であった〈腐植土理論theory of humus〉を批判,化学的な栄養理論を展開して最少養分律を唱えた。さらに土地から灰分をとりさる略奪農業を避けるためには,人造の無機肥料が必要であるとも主張した。また生体内の化学的過程についての研究もあり,彼のこの方面の業績は農業化学や栄養化学の土台となった。

 リービヒの化学薬学教室は,当時主流だった徒弟制的方式を改め,近代的な科学者養成法を創始し確立した点で重要である。この教室は初め化学の練習実験を主にしていたが,彼が私財をつぎこみ政府に援助を要求して発展させ,教授の指導のもとに多数の学生に研究を行わせる方式を確立した。このギーセン式教育法は有名になり,しだいに各国に普及していった。彼のもとには,ドイツ内外から俊英が集まり,A.W.vonホフマン,C.F.ゲルアルト,A.W.ウィリアムソン,E.フランクランド,F.A.ケクレなどのすぐれた門下を輩出した。このほか化学専門雑誌の編集発行にもつとめ,その功績は,現在も発行されている雑誌《Liebigs Annalen der Chemie》に名をとどめている。《化学通信》(1844)をはじめ多数の啓蒙的著作がある。
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百科事典マイペディア 「リービヒ」の意味・わかりやすい解説

リービヒ

ドイツの有機化学者。ボン,エルランゲン両大学で学んだのち,パリ大学でゲイ・リュサックらに学ぶ。帰国後1825年ギーセン大学教授となり,大学構内に近代的化学実験室を開設し新しい化学教育を創始,ケクレら多くの研究者を育てた。1852年以後ミュンヘン大学教授。1826年,パリ大学時代に研究していた雷酸が,ウェーラーの研究していたシアン酸の異性体であることを発見。1831年有機化合物の元素分析法を確立,1832年ウェーラーとともに苦扁桃油の研究からベンゾイル基の存在を実証し,有機化合物の構造における基の理論をうちたてた。1840年に発表した無機栄養論は農業化学の先駆。生化学(血液,胆汁,尿),発酵に関する研究もある。
→関連項目最少養分律

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「リービヒ」の意味・わかりやすい解説

リービヒ
Liebig, Justus von

[生]1803.5.12. ダルムシュタット
[没]1873.4.18. ミュンヘン
ドイツの化学者。薬剤師の子として早くから化学に興味をもつ。ボン大学,エルランゲン大学で化学を学ぶが,大学での化学教育に満足せず中退。その後 J.ゲイ=リュサックに認められ指導を受けた。ギーセン大学助教授 (1824) ,同教授 (26) 。ここで近代的な化学実験室をつくり,学生自身による実験研究を中心とした化学教育を推進し,大学科学教育の歴史に画期的な一歩を記した。また並行して化学の理論的研究にも成果をあげ,1845年男爵に叙せられた。ミュンヘン大学教授 (52) 。バイエルン・アカデミー会長,内閣顧問などを歴任。有機化合物の元素分析法の改良 (31) ,安息香酸の研究と根理論 (32) ,尿酸 (38) ,酸の水素説の確立 (38) ,発酵の研究 (39) などのほかに,農芸化学,生理学の化学的研究などの応用面でもすぐれた業績を残している。化学雑誌『化学年鑑』の編集のほかに,膨大な数の論文,著書があって,化学啓蒙書『化学通信』 Chemische Briefe (44) は広く親しまれている。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「リービヒ」の解説

リービヒ
Justus Freiherr von Liebig

1803~73

ドイツの化学者,農芸化学の創始者。チタンを分離し,クロラールを発見しているが,主業績は有機化学の分野にあり,初めて肥料の理論を樹立し,また三大栄養素を確定して栄養化学の祖ともなった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「リービヒ」の解説

リービヒ
Justus Freiherr von Liebig

1803〜73
ドイツの化学者
ベンゾール基の存在を示して有機化合を体系化した。また有機化学を用いて土壌・農作物の分析を行い化学肥料をつくった。

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世界大百科事典(旧版)内のリービヒの言及

【イノシット】より

…イノシトールinositolとも呼ぶ。1871年にJ.F.vonリービヒにより,酵母などの発育促進因子としてその存在が予想され,20世紀に入り,その実体がシクロヘキサンヘキサオールであることがわかった。ビタミンB2群の一員で,欠乏によって脱毛などが起こる。…

【イノシン酸】より

…ヒポキサンチン,リボース,リン酸からなるヌクレオチド。天然物から単離されたヌクレオチドとしては最も古く,1847年にJ.vonリービヒによって初めて筋肉から抽出されている。リン酸の結合する位置により,2′‐,3′‐,および5′‐の3種があるが,一般には5′‐イノシン酸またはイノシン‐5′‐リン酸(IMP)を指す。…

【栄養素】より

…植物は空気中の分子状の窒素(N2)を直接利用することはできないので,植物が利用できるNはもとをただせば窒素固定を行う微生物が固定したNに由来している。 1843年にドイツの農芸化学者J.F.vonリービヒは〈植物がどれだけ生長できるかは,必要な元素のうち最も不足しているものの量で決められる〉(リービヒの最小律)ことを示した。施肥は,この最小のものの量を増大させて増収をはかろうとしていることにほかならない。…

【科学教育】より

…19世紀前半は中等・高等教育機関の中に自然科学の教育が徐々に浸透していった時期ということができる。優れた科学者を集めた世界最初の専門科学教育機関といえば,フランス大革命中の1794年に発足したエコール・ポリテクニクÉcole polytechniqueであるし,大学に初めて実験室を設けて実験室教授法をとり入れたのはドイツのギーセン大学のリービヒであった(1825)。 そして,19世紀半ばごろになると,イギリスでも科学技術の教育が産業技術の発展,ひいては一国の繁栄に少なからぬ役割を果たすことが認められるようになって,全学校教育の全面的再編成が始まることになった。…

【ギーセン】より

…その後自然科学や農林・畜産学を中心とする大学になった。化学者J.vonリービヒはここの教授で,現在は医学部もあるこの大学の正式名称〈ユストゥス・リービヒ大学〉にその名を残す。第2次大戦中市街の3分の2が破壊され,戦後の復興はあったものの,大学以外に特に見るべきものはない。…

【キノン】より

…芳香族化合物中のベンゼン環上の水素2原子が酸素2原子で置換された一群の化合物をいう。キノンの名称は,J.vonリービヒの研究室で1838年,キナ酸quinic acidを二酸化マンガンと硫酸で酸化することにより初めて得られたことに由来する。キノン類は,フェノール類,キノール類,芳香族アミン類の酸化によって容易に合成できる。…

【最少養分律】より

…最少律ともいう。植物の無機栄養説を提唱したJ.F.vonリービヒは〈植物の生育はその植物に供給される諸養分のうち,その量が最少のものに制限される〉という説を唱えた。これはリービヒの最少養分律といわれ,植物の生育を制限している養分は最少養分といわれる。…

【農学】より

…テーアと同時にA.スミスの弟子J.H.vonチューネン(1783‐1850)は,みずから農場を管理し,経営・経済的検討を行い,《孤立国》を著して〈農業集約度学説〉,また今日日本では否定的にみられている〈収穫逓減の法則〉を唱えた。ついで実証的・実験的農学ともいわれる分野を展開したのはJ.vonリービヒ(1803‐73)であった。彼の《農業および生理学への化学の応用》は今日なお名著であり,物質の循環に対する考え方を提起し,テーアの〈腐植質説〉に対して〈無機栄養説〉を主張し,〈最少養分律〉を唱え,農芸化学を創始した。…

【肥料】より

…すでに1804年に植物が光合成によって炭酸ガスを吸収していることはスイスのソシュールNicolas Théodore de Saussure(1767‐1845)によって証明されていたが,なお植物は炭素その他の養分を土壌中の腐植から得ているというA.D.テーアらの〈腐植説〉が広く一般に信じられていた。この腐植説に対してドイツのJ.F.vonリービヒが,水と炭酸ガスといくつかの無機塩で植物は育つという〈無機栄養説〉を提唱したのは40年であった。60年にはザックスJulius von Sachs(1832‐97)が水耕法で植物を育て,窒素,リン,カリウム,硫黄,カルシウム,マグネシウム,鉄が必要なことを示した。…

【薬用植物】より

…化学成分の研究は1803年F.ゼルチュルナーがアヘンからモルヒネを単離して以来,キナ皮からキニーネ,タバコからニコチン,吐根からエメチン,コカ葉からコカイン,さらにストリキニーネ,アトロピン,ヒヨスチアミン,エフェドリンといった重要な,生理活性の強いアルカロイドがいろいろな薬用植物から次々と単離された。さらに1837年J.F.リービヒとF.ウェーラーがアミグダリンを加水分解して糖を得たことから,配糖体が薬効成分として大きな位置を占めることが知られるようになった。脂肪が脂肪酸とグリセリンのエステルの混合物であり,精油は種々のテルペノイドの複雑な混合物であることも判明した。…

【ローマ没落史観】より

…ギボンが強調した宗教的要因は,近年モミリアーノA.Momiglianoによりキリスト教会への最良者の吸収という形で再評価された。自然科学的方法の援用は,19世紀末から20世紀初頭にかけて,地力消耗を没落原因とするJ.vonリービヒやシンコービチG.Simkhovitch,気候変動と没落の関連を説くE.ハンティントンらの自然的要因を重視する見解を生んだが,これらに対してはM.I.ロストフツェフによる鋭い批判がある。医学や生物学の進歩は人間的要因にも目を向けさせ,ゼークO.Seeckの〈最良者の絶滅〉論,人種混交によるローマ市民団の劣性化を説くフランクT.FrankやニルソンM.P.Nilssonの説を生んだが,これらも厳しい批判を浴び,ことにナチズムによる罪禍ののちは影を潜めた。…

※「リービヒ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」