フレーベル(読み)ふれーべる(英語表記)Friedrich Wilhelm August Fröbel

日本大百科全書(ニッポニカ) 「フレーベル」の意味・わかりやすい解説

フレーベル
ふれーべる
Friedrich Wilhelm August Fröbel
(1782―1852)

ドイツの教育者、教育思想家。敬虔(けいけん)派の牧師の子に生まれ、幼少時より自然とそれを貫く自然の秩序の意識に目覚め、やがて、この秩序に通ずる人間個々人の精神の十全な発展を理想として、幼児教育に生涯を捧(ささ)げた。「幼稚園」の創始者として知られる。

 林務官の徒弟として実生活に踏み出したが、さらにイエナ大学で学び、当時のドイツ・ロマン主義思想の雰囲気を享受した。やがて学校教師となり、ペスタロッチの学園を訪ねる(1805)などして、しだいに教育に親しむようになった。その後ゲッティンゲン大学ベルリン大学鉱物学、結晶学などを学び、ベルリン大学の鉱物館助手などを務めたが、結局1816年、34歳のときにグリースハイムに1農家を借りて「一般ドイツ教育所」という学校を始め、やがてカイルハウに移って教育活動を続けた。この体験を基に1826年『人間の教育』を著した。これは神と自然と人間とを貫く神的統一理念と、人間にその統一を実現させるための「自己活動」と「労作」の原理を中心として、教育全般にわたる抱負と計画とを論述したものである。

 やがて、とくに幼児教育と、その重要さを女性や家庭に訴えることとに専念するようになり、1837年ブランケンブルクに「自己教授と自己教育に導く直観教授の施設」を創設、子供の「遊戯」を重んじて独特の遊具考案し、それを「恩物Gabeとよんだ。「恩物」とは万物の神的な統一を象徴し、子供を自然にその統一の認識に導く、神からの賜物(たまもの)という意味である。さらに彼はここに「遊戯および作業教育所」を併設し、それを「幼児園」Kindergartenとよんだ(1840)。これがやがて世界に広がった「幼稚園」の始まりであるが、この幼稚園の思想は、当初は政治上および宗教上の理由で厳しい弾圧を経験し、むしろフレーベル死後、マレンホルツ・ビューロー夫人Baroness Bertha von Marenholtz-Bülow(1810―1893)やディースターベークFriedrich A. W. Diesterweg(1790―1866)の努力によってイギリス、フランスなどの外国から広がった。日本では1876年(明治9)アメリカの思潮の影響下に、東京女子師範学校(現、お茶の水女子大学)の付属として設立されたのが最初である。

[村井 実]

『岩崎次男訳『人間の教育』全2冊(1960・明治図書出版)』『長田新訳『フレーベル自伝』(岩波文庫)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フレーベル」の意味・わかりやすい解説

フレーベル
Fröbel, Friedrich (Wilhelm August)

[生]1782.4.21. チューリンゲン
[没]1852.6.21. マリエンタール
ドイツの教育家,幼稚園の創始者。イェナ大学に学び,1805年ペスタロッチの弟子 A.グルーナーのすすめで小学校教師となった。ペスタロッチをたずねて教えを受け,その後ゲッティンゲン大学,ベルリン大学に学ぶ。 35歳でカイルハウにペスタロッチ主義の学園を開く。 56歳のときブランケンブルクに建てた学園は,幼稚園 Kindergarten (1840年以後の名称) のもととなった。幼児教育上遊戯を重んじ,恩物と呼ばれる遊具を考案。主著『人間の教育』 Die Menschenerziehung (26) ,『母の歌と愛撫の歌』 Mutter-und Koselieder (44) 。

フレーベル
Fröbel, Julius

[生]1805.7.16. シュタットイルム近郊グリースハイム
[没]1893.11.6. チューリヒ
ドイツの政治家。チューリヒ大学教授をつとめたのち,1848年フランクフルト国民議会に選出され,R.ブルムとともに左派を指導,ウィーンの反革命に際し,同地におもむき捕えられ,死刑の宣告を受けたが許されて,49~57年アメリカに亡命。 62年以後はウィーンにあって,オーストリアの大ドイツ主義に基づくドイツ連邦政策に尽力。のち帰国して,73~89年スミルナ,アルジェリアの領事。

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