イギリスの自由党政治家。父はウェールズ出身,ユニテリアン派の学校教師であったが1864年死亡。靴屋でバプティスト派牧師の叔父に養育され,84年弁護士試験に合格して開業,非国教主義とウェールズ民族主義の立場をとって活躍し,名声を博した。90年下院に入り,南ア戦争の際には,時の植民相J.チェンバレンの帝国主義政策を激しく攻撃するなど,自由党急進派の雄弁な闘士として知られた。1905年キャンベル・バナマン内閣に商務院総裁,08年アスキス内閣に蔵相として入閣。09年,海軍増強と社会政策の財源を富者の税負担に求める画期的な〈人民予算People's Budget〉を提出して,保守党の地主,貴族の猛反対にあう。保守党多数の上院がこれを否決すると,翌年政府与党は2度にわたる総選挙に勝利して,11年上院の権限を大幅に削減する〈議会法〉を通過させた。また同年彼は〈国民保険法〉を成立させ,イギリス社会保障制度の基礎を築いた。14年第1次世界大戦の危機に直面すると,いちはやく総力戦に備えて戦時財政への切替えに敏腕を振るい,翌年連立内閣の軍需相に転じ,軍需生産拡大に奮闘した。16年キッチナーの死後,陸相となったが,アスキス内閣の緩慢な戦争指導を不満とし,保守・労働両党の支持を得て少数閣僚から成る強力な第2次連立内閣をみずから組織し,戦時の首相(1916-22)として非凡な指導力を発揮した。18年休戦後ただちに総選挙を行って大勝し,翌年の講和会議ではアメリカのウィルソン大統領,フランスのクレマンソー首相とともに指導的役割を果たし,ベルサイユ条約に調印した。しかし,対トルコ政策や深刻なアイルランド問題によりしだいに保守党の支持を失い,22年辞職した。彼とアスキスの対立は,自由党の衰退を招き,以後,労働党に第二党の地位を奪われた。著書に《大戦回顧録》6巻(1933-36),《講和条約の真相》2巻(1938)がある。
執筆者:池田 清
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…交戦各国ではとりわけ戦争3年目に国家総動員体制が確立した。イギリスでは自由党左派の蔵相ロイド・ジョージが労働組合の協力をとりつけて軍需生産を拡大し初代軍需相となっていたが,1916年11月には首相に任命され,労働代表を含む5大臣で戦時内閣を組織して強力な戦争指導をはかり,ハンキーMaurice Hankeyの指揮する内閣官房が能率的な事務処理にあたった。新設の船舶,労働,食糧,国民兵役の諸省の大臣などには実業家が大幅に起用された。…
…たとえばドイツでは,重工業界の第一人者であったAEG社長W.ラーテナウが陸軍省に新設された戦時資源局の長官に就任し,原料の確保と軍需物資の徴発をはじめとする総力戦体制の確立のために尽力した。イギリスでは軍需生産の再編成に努めたD.ロイド・ジョージの功績が顕著で,1916年12月4日以後みずから首相となって戦争を指導したが,英仏両国では社会主義者も政府の一員に加わって総力戦に協力した。さらに英仏両国は被支配民族をも,利益を保障する密約を結んで戦争に動員した。…
…しかも,〈五大国〉のうち日本はほとんど発言せず,イタリアは途中で代表のV.E.オルランドが帰国してしまうというようなことで,事実上,日伊両国は脱落してしまう。実質的には,アメリカ大統領ウィルソン,イギリス首相ロイド・ジョージ,フランス首相クレマンソーという〈3巨頭Big Three〉によって会議が運営されるようになった。そこで,この3巨頭それぞれの立場が問題となる。…
※「ロイドジョージ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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