イギリスの政治家。11月30日保守党政治家ランドルフ・チャーチルの長男として、名門貴族マールバラ公爵家に生まれる。サンドハースト陸軍士官学校で学んだのち、陸軍に入り、インドに赴任した。そこでの経験をもとに書いた『マラカンド野戦軍』The Story of the Malakand Field Force(1898)や、その後スーダンのオムデュルマンの戦いに参加してから著した『河畔の戦争』The River War(1899)で文名をあげた。1899年陸軍を辞め、保守党から補欠選挙に立候補したものの落選し、『モーニング・ポスト』紙の特派員としてブーア戦争の取材に赴いた。そこでブーア軍の捕虜となったが、収容所からの脱出に成功し、英雄扱いを受けた。
その勢いを駆って、1900年の総選挙で保守党下院議員に当選した。しかし、ジョゼフ・チェンバレンが関税改革運動を始めると、それに反対して保守党を離れ、自由党に鞍(くら)替えした(1904)。1905年末に成立した自由党内閣で植民地省政務次官となり、トランスバールへの自治供与によるブーア人との和解を推進した。1908年商務相に就任、ロイド・ジョージによる諸改革を助け、さらに内相(1910~1911)を経て、1911年海相となり、海軍の近代化に努めた。1915年、アスキス首相が保守党との連立内閣をつくるに際して、海相辞任を余儀なくされた。連立内閣でランカスター公領相を短期間務めたのち陸軍に復帰、フランスで従軍した。1917年ロイド・ジョージ内閣の軍需相として政界に戻り、陸相(1918~1921)、植民地相(1921~1922)を歴任した。陸相としてはロシア革命干渉戦争に力を入れ、植民地相としては中東の錯綜(さくそう)した状況を収拾してイギリスの勢力圏を確立するとともに、アイルランド南部への独立付与によってアイルランド民族運動の鎮静化を図った。自由、保守両党の連立が破れたあとの1922年の総選挙で落選、労働党の台頭に直面して自由党に見切りをつけて保守党に移り、1924年保守党下院議員に選ばれた。保守党ボールドウィン内閣では蔵相に就任(1924~1929)、金本位制への復帰を断行したが、第一次世界大戦前の旧平価での復帰はイギリス経済にとっての負担となり、1926年のゼネストを誘発した。このゼネスト期間中は、『ブリティッシュ・ガゼット』という新聞を編集し、スト攻撃に全力を注いだ。
1930年代には、インド民族運動への若干の譲歩を盛り込んだインド統治法にかたくなに反対し、保守党内で孤立していった。そのため、早くからナチス・ドイツの強大化について警鐘を鳴らし、ネビル・チェンバレンなどの追求する宥和(ゆうわ)政策に鋭い批判を加えたものの、十分な政治勢力を築きえなかった。しかし、宥和政策が失敗し第二次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)するに及んで、政界での力を回復、海相(1939~1940)を経て、1940年5月首相の座についた。
大戦中はルーズベルトやスターリンと緊密な連絡を保ちつつ、政戦の両面にわたって強大な指導力を発揮し、連合国側の勝利に貢献した。その反面、戦争中に強まってきた社会改革を求める国民の声には冷淡であったため、戦争終結を目前にした1945年7月の総選挙では、改革を強調する労働党に敗北を喫した。1951年の総選挙後ふたたび首相となったが、高齢のための衰えが目だち、1955年イーデンに後を譲った。1965年1月24日死去。
20世紀のイギリスを代表する政治家であると同時に、文筆家、歴史家としても一家をなし、第一次世界大戦の歴史である『世界の危機』The World Crisis(1923~1929)や『第二次世界大戦史』The Second World War(1948~1954)などの著作は広く読まれている。1953年ノーベル文学賞受賞。また画家としても優れた才能をもっていた。
[木畑洋一]
『W・チャーチル著、中村祐吉訳『わが半生』(1965・角川書店)』▽『W・チャーチル著、佐藤亮一訳『第二次世界大戦』全4冊(1975・河出書房新社)』▽『ロード・モーラン著、新庄哲夫訳『チャーチル――生存の闘い』(1967・河出書房新社)』▽『山上正太郎著『チャーチル』(1972・清水書院)』▽『河合秀和著『チャーチル』(中公新書)』
イギリスの政治家。スペイン継承戦争に戦功をたてた初代マールバラ公の子孫。保守党蔵相を務めたランドルフ・チャーチルRandolf C.(1849-95)の長男。チャーチルは動乱期の指導者として最もよくその才能を発揮する型の政治家であり,90年におよぶ生涯は,大英帝国の栄光とその清算を象徴している。名門に生まれ軍人を経て議会人になった前半生は,精力的で豪胆なためむしろ不遇であった。だがナチス・ドイツと死闘するイギリスの運命を担ったとき,彼の強靱な戦闘意志と率直な雄弁は瀬戸際で国民を鼓舞し,5年にわたる政治と軍事の非凡な指導によって,反ナチス陣営を勝利へと導いた。
1895年陸軍士官学校を卒業すると,第4軽騎兵連隊に入り,キューバ,インドで反乱鎮圧軍に参加,スーダン遠征,ボーア戦争にも軍人または記者として従軍し,これらの体験記を著して名声を得た。1900年保守党から下院に入り,独自の政治見解に基づき同党指導層を批判,ことに自由貿易主義を支持し保護関税政策に強く反対,04年自由党に移籍した。自由党内閣が発足すると06年以後植民相次官,商相,内相を歴任,その間ロイド・ジョージとともに多くの社会立法成立に努力した。11年以降は海相としてドイツの脅威に対抗し海軍力強化を鋭意断行して第1次世界大戦に備えたが,15年ダーダネルス海峡攻撃失敗の責任をとって辞職。しかし,17年ロイド・ジョージ連立内閣で再び軍需相に起用された。戦後は19年第2次同連立内閣の空相兼陸相,21年植民相を務めたが,22年総選挙の結果,自由党が保守党に敗れ,労働党が第二党に躍進して,チャーチル自身も議席を失った。下院に復帰した24年,反社会主義の立場から再び保守党に戻り,ボールドウィン内閣の蔵相として,物価を引き下げ,ポンドの価値を戦前の水準に回復させるため,金本位制復帰を実施した。この引締め策はデフレ,失業,賃金低下を招き,労働者の不満が募って26年ゼネストという事態に発展した。彼は政府機関紙《ブリティッシュ・ガゼット》を発行して,強硬姿勢を示したため,第2次世界大戦までの期間,労働陣営から敵視された。29年内閣辞職とともに下野してのちは,保守党主流派と見解を異にして,10年余り閣外にとどまった。この間ナチス・ドイツの脅威に対抗して再軍備の必要を強く訴え,また自治領の地位を認めるインド統治法にも反対した。A.N.チェンバレンの対独宥和政策を激しく攻撃し,英仏ソの同盟を主張した。
39年9月第2次世界大戦の開戦と同時に海相に任ぜられ,ノルウェー作戦失敗を機に辞職したチェンバレンの後を継いで40年首相となる。彼は労働党の協力を得て強力な戦時内閣を組織し,みずからは国防相を兼務,政軍両権を掌握した。困難な戦局にも,不屈の信念と力強い雄弁により国民および連合軍の士気を鼓舞し,F.D.ローズベルト,スターリンとともに6年間戦争の最高指導に当たった。しかし45年の総選挙で保守党は敗北し,同年のポツダム会談半ばにして労働党新首相アトリーにイギリス代表の席を譲ることになった。これは,偉大な戦時指導者としてのチャーチル個人の資質によりも,労働党の社会政策に戦後再建の期待をかけた国民感情の表れと見られる。この年すでに〈鉄のカーテンIron Curtain〉という言葉でソ連への警戒心を明らかにした彼は,翌年野党党首としてアメリカのフルトンで演説し,共産主義勢力に対抗する英米協力の必要を力説,一方スイスにおいては〈ヨーロッパ統合〉を提唱した。51年には再び政権に就き,53年エリザベス2世の戴冠式にあたりガーター勲章を授けられた。同年スターリンの死後,頂上会談による冷戦の緊張緩和を企図したが,健康を害し計画の実現を見ず,55年イーデンを後継者に指名して引退した。
その名演説における格調高い英語の語法は,数多くの著作にも反映し,53年度ノーベル文学賞を受賞している。おもな著作に,父や先祖マールバラ公の伝記をはじめ,第1次世界大戦の自伝的記録《世界の危機》4巻(1923-29),《わが半生》(1930),《第2次世界大戦》6巻(1948-53),《英語国民の歴史》4巻(1956-58)などがある。またポロ競技,絵画とくに水彩画など多方面に豊かな才能を発揮,最晩年には多くの名誉が与えられ,65年国葬が行われた。
執筆者:池田 清
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1874~1965
イギリスの政治家,首相(在任1940~45,51~55)。マールバラの直系の子孫としてブレナム宮で生まれ,ハロー校,陸軍士官学校出身。キューバの反乱,インドでの植民地戦争,南アフリカ戦争に冒険を求め従軍記によって文名を高めた。1900年保守党員として下院に入るが,保護関税に反対して自由党に転じ,05年以後,植民次官,商相,内相を歴任,11年海相となる。第一次世界大戦ではダーダネルス作戦に失敗し辞職。17年ロイド・ジョージに迎えられ,軍需相,陸相兼空相,植民相を歴任。ロシア革命への批判から24年保守党に復帰し,再び下院に入り蔵相となる。29年辞任後は野にあって,ナチスの脅威を警告し宥和政策を批判した。第二次世界大戦が始まると海相,40年以後は首相として戦争指導にあたった。45年総選挙に敗れ下野し,51~55年には再び首相。伝記や大戦回顧録など,文筆家としても著名で,53年ノーベル文学賞を受賞。
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…38年のミュンヘン会談に象徴されるチェンバレンの対独宥和政策は,イギリス国力の相対的低下を自覚した,ベルサイユ体制の平和的修正の試みであったが,もはやイギリスにはかつての〈世界の警察官〉としての威信も実力もなく,第2次世界大戦の勃発は防げなかった。
[福祉国家への再生]
イギリスはW.チャーチルの下で,満6年にわたり国力を使い果たして戦い抜き,第2次世界大戦に勝利した。だが戦勝の国民は,労働党に経済再建を急務とする苦難の戦後経営を託した。…
…イギリス防衛の名の下に,総人口500万未満のうち40万の壮丁が中東および欧州戦線に赴き,8万が戦死した。イギリス軍参謀本部と時の海相W.チャーチルの無謀な作戦によって,ANZAC(アンザツク)(オーストラリア・ニュージーランド連合軍)が戦死1万,負傷2万4000の被害を出した,ダーダネルス海峡内のガリポリ湾での戦闘(1915年4~12月)は,オーストラリア,ニュージーランド両国内で聖戦視され,あらゆる悪しき保守性の結節点となっている。1926年イギリスは自治領の内政・外交の自治権を認め,31年ウェストミンスター憲章として法制化したが,カナダとアイルランド自由国は即座にそれを批准したのに,オーストラリアは42年,ニュージーランドは47年まで批准しなかった。…
…
[イギリス]
イギリスは,開戦にいたるまで〈宥和(ゆうわ)政策〉をとり,ドイツの侵略的行動を許していった。その後1940年5月チャーチルのもとに〈挙国一致政府〉が成立し,ドイツの攻撃に抵抗し反撃したのである。この時期イギリスは,経済の弱体化とイギリス帝国の維持という二つの構造的条件のなかで活動せざるをえなかった。…
…地名はドイツのバイエルン州南西部,ドナウ河畔にあるブレンハイムBlenheim(現在はブリントハイムBlindheim)村に由来する。スペイン継承戦争中の1704年,初代マールバラ公爵ジョン・チャーチル指揮下のイギリス軍は,ブレンハイム村付近でフランスとバイエルンの連合軍を破った。その功績により時のアン女王からマールバラ公に下賜された領地がこの村である。…
※「チャーチル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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