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19世紀末から20世紀初頭にかけて南アフリカの支配をめぐってイギリス人とボーア人Boerの間で行われた帝国主義戦争。ブール戦争,アングロ・ボーア戦争,南ア戦争などとも呼ばれ,第1次戦争(1880-81)と第2次戦争(1899-1902)がある。
グレート・トレックの結果,1852年建国されたボーア人のトランスバール共和国は,70年代に財政事情が悪化した。イギリス植民地相H.カーナボンはこれを契機に介入し,77年同国を併合した。ボーア人は80年10月武力蜂起し,翌81年2月マジュバ・ヒルの戦でイギリス軍を破り,主権を回復した(第1次ボーア戦争)。
86年トランスバールのラント(ウィットウォーターズランド)で金の富鉱が発見されると,ケープ植民地首相C.ローズは,トランスバールに居住するイギリス人(アイトランダースと呼ばれた)の権利保護を名目に,95年L.ジェームソンらを同国に侵入させたが失敗し,政界から引退した。しかしイギリス植民地相J.チェンバレンは,A.ミルナーをケープ行政長官として派遣し,トランスバールに対し露骨な内政干渉を始めた。クリューガー・トランスバール大統領は譲歩を重ねたが,ついにオレンジ自由国と軍事同盟を結び,99年10月宣戦を布告した(第2次ボーア戦争)。開戦当初イギリス軍約1万5000,ボーア軍約4万で,戦闘の第一段階でイギリス軍はボーア人民兵に悩まされたため本国に援軍を求め,1900年3月にオレンジ自由国,6月にはトランスバールの首都をおのおの占領した。その後,戦闘はゲリラ戦となり,ド・ベットやド・ラ・レイの率いるボーア人ゲリラが反撃に出たため,イギリス軍は壊滅作戦に出て非戦闘員の家屋や田畑を焼き払い,世界の民衆の同情はボーア人側に集まった。しかし02年イギリス側が勝ち,フェレーニヒング和平条約によって,トランスバールとオレンジ自由国はイギリス直轄植民地となった。なお,この戦争に特派員として派遣されたJ.A.ホブソンはその見聞に基づいて《帝国主義論》(1902)を著した。
執筆者:林 晃史
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…最も遅れて登場したイタリアは80年代末期にいたってソマリアの一部とエリトリアを手中におさめ,さらにエチオピアに触手をのばしたが,96年のアドワの戦でエチオピア軍に敗れ,野望を放棄した。ヨーロッパ列強によるアフリカ分割競争の終幕を告げたできごとは第2次ボーア戦争(1899‐1902)であった。この戦争でイギリスは,金やダイヤモンドを豊富に産出するボーア人の二つの国,オレンジ自由国とトランスバール共和国を併合し,その後の南アフリカ連邦(現,南アフリカ共和国)の原形をつくったのであった。…
…その結果労働者数は90年の1万4000人から99年には9万7000人に増大し,金産出額も1887年の8万1000ポンドから94年には695万9000ポンドに急増した。1899‐1902年のボーア戦争はJ.A.ホブソンが糾弾したように産金地帯の領有を目ざすイギリスの経済的帝国主義が原因であったが,戦後労働力不足を補うため一時期中国人契約労働者を導入した。第1次大戦後金鉱業関連産業として製造工業もこの地域に発展し,現在は南ア共和国最大の工業地帯となり,同時に,金鉱業はアングロ・アメリカン社をはじめとするイギリス系およびボーア系の金鉱会社が支配し,全世界の約23%の金を産出し世界第1位となっている。…
…しかし,有力地方紙の枠を超え,全国的権威を確立するのは,72年創業者の甥C.P.スコットが編集長(1872‐1929)になってからである。彼はグラッドストンのリベラリズムを熱烈に支持し,アーノルドWilliam T.Arnoldら,著名な学者,文人をライターに集め,1899‐1902年のボーア戦争では,最初から最後まで徹底して反対した。保守派からボイコットを組織され,群衆に社屋は襲撃され,部数も激減し,物的被害は甚大であったが,少数派になることを恐れないリベラル・ラディカル紙としての伝統を確立した。…
…グラッドストンの引退後,ローズベリー伯(1894‐95首相),R.B.ホールデーン,E.グレー,H.H.アスキス(1908‐16首相)ら一部の自由党議員は,イギリス帝国の統合に強い関心を寄せるようになり,自由帝国主義者と呼ばれた。1899年のボーア戦争の勃発に際して,親ボーア的な党主流派に抗して戦争を肯定し,以後党内に一派閥を形成した。彼らの主張は,イギリス帝国の統合を帝国主義時代の最も重要な政治課題として認識し,その上に自由主義と自由党を再編成していくというもので,帝国官吏を養成するための国民教育,行政の合理化,国家による保健衛生の普及などを骨子とする〈国民効率〉の運動を推進した。…
…1905年テーラーの死後は同紙を買いとり,名実ともに支配者となった。ボーア戦争(1899‐1902)に反対した少数のひとりで,購読者の激減,暴徒の脅迫に屈せず,最後まで批判を続けたことは著名。1895‐1905年,自由党下院議員となる。…
…これに目をつけたイギリス植民地相カーナーボンは77年同国を併合した。ボーア人は一致して反対し,ロンドンに代表を派遣して独立の回復をはかったが拒絶され,80年武装蜂起し(第1次ボーア戦争),81年2月マジュバの戦でイギリス軍を破り,独立を回復した。86年同国のウィットウォーターズランドで金の大富鉱が発見されると,イギリスは直ちに同国の併合を企てた。…
…アフリカーンス語はオランダ語の一つの方言であり,本国から隔絶した間に変化したものである。入植初期の苦闘と,イギリスとのボーア戦争に敗北した苦い経験から,アフリカーナーは一種のナショナリズムを抱くにいたった。それはさらに〈神の真の僕(しもべ)はキリスト教徒である白人のみで,他の人種は白人に仕えるために存在する〉という選民意識につながり,アパルトヘイトという人種隔離政策を打ち出した。…
※「ボーア戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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