ロシアソビエト演劇(読み)ロシアソビエトえんげき

改訂新版 世界大百科事典 「ロシアソビエト演劇」の意味・わかりやすい解説

ロシア・ソビエト演劇 (ロシアソビエトえんげき)

ロシア革命前の演劇はロシア演劇と呼ばれ,革命後多民族国家となってからの演劇は,各地の民族演劇も含め,総称してソビエト演劇と呼ばれてきた。

ロシア演劇の起源も他の諸国と同じで,古代の民衆の遊戯や儀式が母体となっている。歌,踊り,寸劇,人形芝居,動物の曲芸,手品などすべてをこなした最初の職業芸人スコモローフskomorokhが誕生したのは10世紀であるが,その人気と反骨精神を嫌ったツァーリ,アレクセイ・ミハイロビチは1648年に彼らの仕事を禁じた。そして,宮廷付道化となった者だけをわずかに残した。だがこのころ神学校が学校劇を始め,宗教的作品の合間に滑稽な幕間狂言も見せたため,そこにスコモローフ芸は受け継がれることになった。学校劇の台本がロシア最初の劇文学である。代表的作者としてシメオン・ポーロツキーSimeon Polotskii(1629-80)の名が残っている。ツァーリは72年にロシア初の宮廷劇場を建て,ドイツ人牧師グレゴリーGregory(1631-75)に劇団結成を委任した。しかしこの外国人劇団はツァーリの死とともに消えた。

 ピョートル1世は演劇による政治理念の普及を狙い,1702年赤い広場に一般向けの劇場を建てたが,出演したのはドイツのクンスト一座でドイツ語上演であったため成果はあがらず,4年後閉鎖となった。30年代に入ると宮廷劇場で西欧の劇団,オペラ・バレエ団の公演がしばしば催され,貴族が劇場文化に熱中した。町のラズノチンツィ(雑階級インテリゲンチャ)も素人芝居を始めた。それを見た女帝エリザベータ・ペトロブナはヤロスラブリ市から素人劇団ボルコフFyodor Grigor'evich Volkov(1729-63)の一座をペテルベルグに招き,劇作家スマローコフの下で修業させた。そして56年専用の常設劇場を建ててロシア初の職業劇団として出発させた。演目は国家への忠誠を説き,貴族や官吏の悪徳を風刺するロシア古典主義作品が主だった。

 エカチェリナ2世時代はフランスの啓蒙思想が広く紹介されたことで有名だが,同時に農奴制反対の声も国内で高まり,著名な劇作家フォンビージン,カプニストVasilii Vasil'evich Kapnist(1758-1823)らも農奴制批判の戯曲を書いた。古典主義に代わりセンチメンタリズムが流行し,農民を好意的に描く喜歌劇なども生まれた。激怒した女帝は検閲制度を強化し新作を焼き捨て,代りに自作の喜劇を上演させた。このころ貴族や大地主の間では農奴に芸を仕込み,邸内の劇場で芝居やオペラなどを演じさせる農奴劇場が流行した。農奴俳優の中には,職業劇場に採用されて自由の身となる者も出た。演劇評論がラジーシチェフ,ノビコフらにより始められたのもこの時代である。

 19世紀に入るとナポレオン戦争の勝利やデカブリストの乱の影響で,オーゼロフVladislov Aleksandrovich Ozerov(1769-1816)の英雄的・愛国的悲劇がもてはやされたが,次いで人間の美と力をうたいあげるロマン主義が劇作にも俳優の演技にも流行した。新しい舞台機構を駆使したローレルAndrei Adamovich Roller(1805-91)その他の舞台美術家たちの仕事が,その流れを前進させた。だが同時に,歴史的具体性を重視し,個人の社会的属性や個人と社会の相関関係を芸術に反映させようとするリアリズムも人々を魅了し,ニコライ1世治下の過酷な弾圧や検閲にもかかわらず,演劇界はみごとな発展をとげた。グリボエードフ《知恵の悲しみ》(1824-28),プーシキン《ボリス・ゴドゥノフ》(1825),ゴーゴリ《検察官》(1835-42),レールモントフ《仮面舞踏会》(1835)その他不朽の名作が次々と書かれた。当時はまだ今日的意味での演出芸術は確立していなかったが,希代のハムレット役者モチャーロフPavel Stepanovich Mochalov(1800-48),農奴出身のシチェプキンMikhail Semyonovich Shchepkin(1788-1863)その他の名優たちが活躍し,ベリンスキー,ゲルツェンらも演劇評論で健筆をふるった。19世紀後半の劇作家A.K.トルストイ,A.N.オストロフスキー,ツルゲーネフ,シチェドリン,スホボ・コブイリン,L.トルストイその他や,名優サドーフスキーNikolai Karpovich Sadovskii(1856-1933),エルモーロワその他,また評論家チェルヌイシェフスキー,ドブロリューボフらがこれら先輩たちの仕事を引き継ぎ,さらに発展させた。

 1882年にペテルブルグとモスクワの演劇界を長く縛っていた帝室劇場独占体制が廃止された。また西欧の近代劇運動が紹介され始めたこともあり,私営の劇団がいくつか誕生した。なかでも98年にスタニスラフスキーネミロビチ・ダンチェンコが創設したモスクワ芸術座は,演出芸術を確立させ,演技のアンサンブルを重視し,せりふの行間に流れる心理をたどりながら人間の真の姿を表現することに成功した。芸術座のチェーホフ劇,ゴーリキー劇などはロシア演劇を飛躍的に発展させたのみならず,世界の演劇に大きな影響を与えた。しかし1905年の革命の敗北や第1次大戦の混乱の中でインテリゲンチャは象徴主義演劇に傾倒し始め,神秘主義や運命論に基づく演劇論,演技論の大流行をみた。このような姿でロシア演劇は革命の年17年を迎えた。

革命政府は,大衆の啓蒙教化のために1年半にわたり劇場の入場券を労働者,農民に無料配布する一方,演劇を社会主義普及のための武器にすべく,まず劇団,劇場を文教人民委員部の管轄下においた。そして大手の劇団,劇場にはある程度の自治権を認めながら,1919年から20年にかけて徐々に劇団,劇場の国有化を進めた。新事態への演劇人の反応はさまざまで,旧帝室劇場群は社会主義政権への反発から大半が休業に踏み切り,文教人民委員ルナチャルスキーの説得工作でしぶしぶ仕事を再開した。モスクワ芸術座も似たようなもので,これらの劇団は20年代半ばまではあまり活躍しない。一方,政府の肝いりでいくつかの新劇団が創設された。その最初はペトログラード(現,サンクト・ペテルブルグ)のボリショイ・ドラマ劇場Bol'shoi dramaticheskii teatrで,1919年にシェークスピア,シラーの作品で出発した。また1918年夏に演劇人としては最初に共産党に入党し,革命1周年記念をマヤコーフスキーの革命寓話劇《ミステリヤ・ブッフ》の上演で祝ったメイエルホリドのような演出家もいた。彼とその信奉者たちは演劇革命のスローガン〈演劇の十月〉を掲げ,ベルハーレン作のアジテーション演劇《暁》(1920),ビオメハニカを駆使したクロムランクの《堂々たるコキュ》(1922)その他の革新的手法の作品を次々と発表した。これは構成主義など当時のロシア美術界におけるアバンギャルド運動とも呼応する仕事であった。この時期素人の演劇活動も盛んで,祝祭日の野外ページェントやプロレトクリトの劇場,労働青年劇場(TRAM(トラム)。正称はTeatr rabochei molodyozhi)などに非常に多くの青年男女が参加した。

 1920年代も半ばになると,旧帝室劇場であったレニングラード(現,サンクト・ペテルブルグ)のプーシキン劇場Teatr imeni Pushkinaやモスクワのマールイ劇場Malyi teatrなども力を盛り返し,モスクワ芸術座も22-24年にわたる外国公演旅行から帰り,演劇界全体がにぎわいを見せ始めた。その一因は激動の時代を図式的にではなく,人間を通して描く戯曲が書かれ始めたことで,例えばマールイ劇場のトレニョフ作《リュボーフィ・ヤロバーヤ》(1926),芸術座のブルガーコフ作《トゥルビーン家の日々》(1926),労働組合モスクワ市ソビエト劇場のビリ・ベロツェルコーフスキー作《暴風雨》(1925),メイエルホリド劇場のエルドマン作《委任状》(1925)などがその好例である。またスタニスラフスキー演出のオストロフスキー作《熱き心》(1926)やメイエルホリド演出のゴーゴリ作《検察官》(1926)などロシア古典の斬新な読み直しもあり,タイーロフ演出のオニール作《楡の木陰の欲望》(1926)のようなすぐれた翻訳劇も生まれた。またこのころ児童演劇の専門家ブリャーンツェフAleksandr Aleksandrovich Bryantsev(1883-1961)やサッツNatal'ya Il'inichna Sats(1903-93)らにより各地に児童劇場が創設され,今日の充実したソビエト児童演劇の礎となった。

 1930年代はゴーリキーの新作《エゴール・ブルイチョフとその他の人々》(1931)で始まり,若手劇作家ポゴージン,ビシネフスキーVsevolod Vital'evich Vishnevskii(1900-51),アフィノゲーノフ,コルネイチュークらも社会主義建設にいそしむ青年像を生き生きと描き,どれも新鮮な舞台作品となった。E.L.シュワルツ,オレーシャ,ファイコAleksei Mikhailovich Faiko(1893-1978)らも独自なスタイルで劇作を始めた。またカーメルヌイ劇場Kamernyi teatrではロシア初のブレヒト劇《三文オペラ》が30年に初演された。ところが34年の第1回作家大会で〈社会主義リアリズム〉が唯一の創作方法であると規定されたころから,毛色の変わった作品や傾向すべてに形式主義とかブルジョア芸術とかいうレッテルを貼り排斥する,いわゆるスターリンの個人崇拝が表面化し始めた。年々その傾向は助長され,スタニスラフスキー亡き後の停滞した芸術座の芝居が唯一の規範とされ,いくつもの劇団の閉鎖や芸術家の逮捕・粛清まで行われた。

 しかし演劇界の健全な部分は満を持し,第2次大戦中には移動演劇隊を編成してたびたび前線の慰問にも出かけた。そして,スターリンの死の年の53年12月にモスクワ風刺劇場Moskovskii teatr satiryは長いこと葬られていたマヤコフスキーの戯曲《風呂屋》を,次いで55年《南京虫》,57年《ミステリヤ・ブッフ》を上演した。レニングラードでは55年にトフストノーゴフがビシネフスキー作《楽天的悲劇》の演出で演劇界に新風を吹き込んだ。57年にはモスクワにO.N.エフレーモフの率いる現代人劇場Teatr-studiya“Sovremennik”が創設された。59年劇作家アルブーゾフが,彼の名を世界的に有名にした青春劇《イルクーツク物語》を発表した。60年にはレニングラードのテアトル・コメディーTeatr komediiが,スターリン批判の寓話劇シバルツ作《影》(1940)をアキーモフ演出で初演した。

 以来社会主義リアリズムも相変わらず事あるごとに喧伝されてはきたが,演劇界の実情は多彩を極めて動いている。例えば当代の代表的演出家トフストノーゴフ,エフレーモフ,エーフロスにしても,スタニスラフスキー・システムを信奉する立場は同じだが,手法や作風はそれぞれ驚くほど違う。タガンカ劇場Moskovskii teatr dramy i komedii na Tagankeを創設したリュビーモフは,メイエルホリドやワフタンゴフの手法を取り入れて,写実にとらわれない舞台の表現法を確立した。ソビエト製ロック・ミュージカルに固執しているザハーロフMark Anatorievich Zakharov(1933- )のような演出家もいる。近年は劇場ロビーなどを使う若手演出家の実験的仕事もにぎわいを見せている。劇作家もベテランのミハルコーフSergei Vladimirovich Mikhalkov(1913- ),アルブーゾフ,ローゾフViktor Sergeevich Rozov(1913- ),サリーンスキーA.D.Salynskii(1920- )らと並んで,中堅のローシチンM.M.Roshchin(1933- ),シャトローフMikhail Filippovich Shatrov(1932- ),ラジーンスキーEdvard Stanislavovich Radzinskii(1936- )ら興味深い作風の若手が大活躍している。このところ劇作で目だつのは,職場や私生活における現代人のモラルを問題提起した戯曲が多いことで,老人問題もその一例である。翻訳劇では東欧諸国の現代劇が多いが,シェークスピア,モリエールなども相変わらず人気がある。俳優は層の厚さでも,各個人の実力でも世界のトップクラスであるが,みなモスクワのルナチャルスキー記念演劇大学Institut teatral'nogo iskusstva imeni A.V.Lunacharskogoをはじめ,各地の演劇大学で正規の職業教育を受けた人々である。

現在ロシア人のほかに自分の民族語を使って芝居を上演している民族は46にものぼる。その中にはウクライナ民族,ウズベク民族その他のようにソ連邦の構成共和国をになってきた大きな民族もいれば,僻地の少数民族もおり,当然その民族演劇の質や形,規模には大きな開きがある。モスクワやレニングラードのロシア演劇をひたすらまねる民族もいれば,一方グルジア民族のように劇作,演出,演技などあらゆる面に独自性を発揮して高度の演劇文化を創り上げている例もある。総じて古い文化,伝統,歴史や強い個性をもつ民族の演劇はそれぞれおもしろい。地方色としては,例えばカフカス民族の演劇は少々荒っぽいが実に情熱的で,グルジア共和国の主都トビリシのルスタベリ劇場Teatr imeni Sh.Rustaveliの芝居など,そのよい例である。バルト海沿岸諸民族の演劇にはドイツ文化の影響が濃い。エストニア共和国のタルトゥ市には,一劇団で芝居もオペラもバレエも上演する風変りなワネムイネ劇場Teatr“Vanemuine”がある。中央アジア諸民族の演劇はおおむね単純ではあるが,東洋的感性や野性味やイスラムの影響などが独特の味わいを生みだしている。

 ソ連邦のもとでは,組織的にはどの民族劇団も最寄りの構成共和国文化省の管轄下に置かれており,それら文化省がモスクワのソ連邦文化省の管轄下にあるというピラミッドを形成していた。中央政府は民族演劇政策として〈イデオロギーは社会主義を守り,形式は各民族固有のものを使うように〉と指示してきた。いろいろな原因で衝突の起こる場合もあったが,おおむねこの指示に沿った形で動いてきた。なお各構成共和国のほとんどの主都に演劇大学,芸術研究所,演劇図書館,演劇博物館,演劇協会などが完備しており,その土地の演劇文化向上のために重要な役割を果たしてきた。

日本の新劇はイギリス,フランス,ロシアなど西欧演劇を師として生まれ育ったが,例えばロシアの戯曲は1910年に自由劇場がチェーホフの《結婚申込み》(上演名《犬》)やゴーリキーの《どん底》(上演名《夜の宿》)を試演したのが最初の上演とされている。以来,芸術座がトルストイの《復活》(1914)その他を,築地小劇場がチェーホフの《白鳥の歌》(1924),《桜の園》《三人姉妹》(ともに1925),ゴーゴリの《検察官》,アンドレーエフの《横面をはられる彼》(ともに1925),ロマショーフの《空気饅頭》(1927)その他というぐあいに次々と上演された。ロシア文学へのインテリゲンチャの共感と呼応する現象であった。

 一方,革命後のソ連のアジ・プロ演劇が細々ながら紹介され始めると,新劇界にはプロレタリア演劇運動が起こり,前衛座がルナチャルスキーの《解放されたドン・キホーテ》を上演したり(1926),ソ連の労働青年劇場をまねた青服劇場が主要都市につくられたり,アジ・プロ政治寸劇〈生きた新聞〉が試みられたり,キルションの《風の街》が上演(1931)されたりした。しかし権力側からのたび重なる弾圧やプロレタリア演劇運動自体の未熟さが原因で,運動は演劇芸術としての成果をあまりもたらさずに消滅した。

 第2次大戦後日本の新劇は,1945年末の合同公演《桜の園》で出発した。以来ロシアの近代古典を再演し直す動きと並行して,社会主義国の新しい演劇への関心も高まり,俳優座上演のマルシャーク作《森は生きている》(原題《12ヵ月》,1955)や劇団民芸上演のアルブーゾフ作《イルクーツク物語》(1961)が,その新鮮な持ち味とヒューマニスティックな主張で反響を呼んだ。その後も民芸のショーロホフ作《開かれた処女地》(1965),シャトローフ作《7月6日》(1970。レーニンが主人公の芝居),シバルツ作《影》(1973)その他,東演のワシーリエフ作《夜明けは静かだった》(1975)などが話題となった。しかし最近は,例えばアルブーゾフの《昔風の喜劇》が俳優座,民芸,松竹3劇団で競演されたりすることからもうかがえるように,普遍的な人間のドラマを描いた戯曲の方が,日本人には受けるようである。ソ連からはモスクワ芸術座が58年と68年,レニングラードのボリショイ・ドラマ劇場が83年に来日公演し,演出,演技その他で新劇界に少なからぬ刺激を与えた。
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